見出し画像

反抗期。

「頑張りたいのに頑張れない」

と、大学時代の私は自分に嫌気が刺す度言っていた。酔っ払ったわけでも無いのに、やけ酒を飲んで全てどうでもよくなった奴のように泣き叫んでいた。
「頑張りなさい」が口癖の母と「頑張る」が口癖だった私との真面目な親子関係は、冒頭の私の言葉で混乱を極めて、正常な意思疎通がまるで出来ていない4年間だったと今振り返って思う。

行動は感情によって生まれるもので、感情もまた行動により生じた事実によって突き動かされそうなものであるのに、
何故かその狭間に、大きな乖離とそれによる空虚を感じてしまう悲しさが、私には気持ち悪く感じられて嫌いだった。それに抗おうと「もっともっと頑張らなきゃ」と思うと、ただただ乖離が大きくなるだけであって何も解決しない。
こうやって生まれるもどかしさにとって私の心をぐにゃりと握りつぶすのは、さぞ容易いことだったと思う。



私は全然頑張っていないのに、なんでこんなに疲れて何も出来なくなってしまうんだろう。
と思ってしまうたびに、苛立ちと悲しさが体から溢れ出た。それは涙だったり何か物に当たる乱暴な行為だったり、色んな形となって。
いつからこんな人生になったかな、と認識できない何かを恨んでいたし、早くこんな人生終わって全てをリセットして、最早自分としてでなくて良いからもう一度「生きる」ということをやり直してみたかった。
つまり大学時代の私にとって、今回の人生は失敗作だった。

今はそう思わず生きていられているかと問われれば、別に頷くことは出来ないのだが、何とか軌道修正してやろうという気慨だけは何となく持ち合わせていて今を生きている。今までの人生の全てに反抗して、自分が生きていたいと思うものになんとか変えてやらなきゃ、というような。
何故か私は何とか出来ると思っていて、私のことを自分の人生すら修正できない人間だと評価しているのならとうの昔に自分を見放してさっさと死んでいたように思う。


とはいえ、最近の私はどうにも生き急いでいる。
学生という肩書きが消えた代わりに、生活にある程度の自由が滲むようになった社会人生活はとても有意義なものだけれど、「絶対にこのまま終わってはいけない」という変なプレッシャーに追いかけ回されていて、体力が無いままの私がずっと走り続けているような疲労を感じる。

時間が許す限り色んな物事に触れて自分の理想を描いて、体力が許す限り無作為に手をつけて無闇に自分なりのものを作っていく昨年は、それなりに楽しかったが足踏みだけして全く前に進んでいないみたいなもどかしさを感じた。自分のことが、あたかも頑張っている風を装う小賢しい人間のように感じてうざったく思えた。

2024年はどうにかこんな自分が変わっていなくてはいけないと考えてから、今までの自分が無駄にしてきた一日一日が勿体無く思えて頭を抱えたりしたこともあったのだけど、366日、小さなものを積み上げ続けて今年の12月31日は自分を安心させたい。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?