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【最終回】「いずれは地元で仕事したいなあ」だけでは仕事は作れない
お世話になります、森本です。
さて長々と9回も続けてきましたが、「銀行やめて地方に飛び込んだ男の話」も最終回でございます。これまで読んでくださった方、駄文にお付き合い頂きありがとうございました。
これまで岡山県西粟倉村に移住して3年間で得た経験をメインで書いてまいりました。3年経過した今自分のやりたい事と、そのギャップで揺れ動いている現実を書きたいと思います。
「いずれ奈良でも仕事出来るようになりたいです」
この言葉は移住前の面接時に、うちの社長に正直に伝えた言葉です。地元に帰ろうか迷っていた中で、西粟倉に移住を決断したのですが、郷土愛というのは中々捨てきれないもので、その心境を正直に伝えたのだと思います。
今振り返ると「いずれ」や「なりたい」など自らの意志が感じられない口ぶりだったなぁと思います。
当時の僕は先進的な西粟倉村に行けば色んなノウハウを得て奈良でも活かせるだろうと本気で思っていました。
けれども、この3年で得た実感は、
課題はその地域によってまちまち。小手先のノウハウはいずれ陳腐化して、すぐ周回遅れになる。
なので、西粟倉にいながら奈良である程度稼げる人材になるというハードルは高いなと感じた3年でもありました。強くてニューゲームは中々リアルな人生では体感出来ないものです。
「地方創生の先進地、西粟倉村の、その空気を吸うだけで、僕は高く跳べると思っていたのかなぁ」
こんな手紙を昔反発していた恩師に書きたい気持ちです。
どうやって地元に関わって行こうか?
これは就職してからもぼんやりと考えていましたが、移住後からはずっと考えていた事です。
西粟倉は住んでみて3年経った今でも毎日過去最高記録くらいで面白いので、離れたくないというのが前提にあります。
月に一度実家に帰省して仕事をしてまた西粟倉に戻ってくる。その他はリモートでやりとり。
こんな理想的な感じに出来ないかなーと色々と考えていました。モデルケースになるような人を探したり、明日香村の移住者の方や、地元の友達と議論を重ねたりしました。
けれども、地元でそういったことをやろうとしても、
「なんで帰って来てやらないの?」「そんな都合のいい事できんやろ?」
と言うフィードバックの嵐。
そりゃ分かるよ!都合のいい事言ってるって。でも、やりたいんだよねー。で終わる日々が続いていたと思います。
でもそれは、
結局、誰かが声をかけてくれるまで待ってないと実現しない未来
だと気づきました。
遅すぎましたね。割と高給取りのサラリーマン辞めて、地方に飛び込んだオレなら誰か声かけてくれるやろ!
と言う、なんの実績もない自分にただただおごっていただけだと思います。
そんな気持ちで奈良に行ってもなんの価値も提供出来なかっただろうなと思います。
自分で仕事作るor誰かの生産性をあげる
地元に関わると言うか、仕事をする上で大切にしている事にもなるのですが、やはり継続的に何かと関わって行く際には、
①自分で仕事を作ってお金を生み出すシステムを作る
もしくは
②自分が関わる事によってその人や組織の生産性をあげる
と言う事が重要になってくるのだと思います。
その軸で動かないと結局は妄想や戯れ言で終わってしまうのじゃないのかなと思います。
金融の世界に少し身を置いていたので、お金のシビアさや財務・会計の重要性というのは理解しているつもりです。
この点にこだわって、西粟倉でも奈良でももっと実績を出して行きます。
何者でもない自分は何者になりたいのか
これまで書いてきて、自分はまだまだ実績がない何者でもないと痛感しました。今は小松組での仕事の他に財務コンサルのまねごとをしたり、地元で0から仕事を作る準備をしているだけで、何者でもありません。
何者でもない自分がこれからも挑戦を続けていきますという宣言をして終えたいと思います。
ご愛読ありがとうございました!
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