白百合について。

もりのブランコと申します。

滅多にブログには残さないのですが、今回は色々形にしたいなぁと思い、筆を取った次第です。

2022年7/1〜3に開催された「イロアワセ vol.3 LiLY whIte」の、7/3昼夜両部を観劇しました。

まずはそれぞれの感想を。

7/3 昼の部に関して。

イロアワセは声優・女優として活躍する、松田彩希さんが主催で開催されている、主に朗読劇をメインとした、一言では言い表せないエンターテインメントです。
これまではその軸として松田さんが壇上でも執り仕切っていたのですか、今回この7/3昼の部には、出演者として松田さんは参加されていません。
これは過去の公演にもなく、松田さんが壇上に不在の「イロアワセ」がどうなるのか、期待と不安が入り混じったまま客席に座っていました。

結論から先に言うと、ちゃんとイロアワセがそこにありました。

奥行きのありそうなのに、全てが壇上にいる人物たちで完結した物語。
導入はやや不穏な空気が漂うのに、いつの間にかそれを忘れる程、役者陣の魅力(イロ)に引き込まれていく。

しかし、ある瞬間を境に、それは音もなく消える。
舞台の最後。
それは幸福だったのか、不幸だったのか。
一概には決められない。そして幕が降りても、何も終わっていないような、何かズンと重いものが心に残る。
これまで観てきた「イロアワセ」と、いい意味でちゃんと変わらないものがありました。

今回イロアワセでは初めて脚本を担当された吉岡茉祐さん。
実はほとんどWUGを通っていない自分としては、生で彼女の演技を観るのは初めてで、一体どんな演技をされるんだろうか、と期待していました。
この昼の部に登壇されたのは他に、堀越せなさん、深川芹亜さん、長谷川里桃さん。
堀越さんは「イロアワセ vol.2」のダリア役の印象が非常に強い方でした。
深川さんは自分にとって、「FIVE STARS」というラジオのパーソナリティの頃の印象が未だに残っている方です。
長谷川里桃さんに関しては、完全に初めて観させていただく方でした。

ですが、そんなことは全くどうでもよくなる程、昼の部はあまりのハマりっぷりに大変に感激しました。

登場人物は4人の女性。

A役。
物語の舞台となる「ゆりかご園」の管理人を演じる堀越さん。
導入からの語り口は非常に優雅で、大人としての立ち居振る舞いは優美でした。
しかし、その雰囲気の中に潜む、おぞましさ。どこか影を感じる口振り。
歪さの織り込み方が本当に絶妙でした。

B役。
物語の軸となる「オトモダチコミュニティ」の幹事として、テキトーながらも明るく振る舞う、溌剌としたお姉さん。
演じたのは長谷川里桃さん。
全く存じ上げない状態で観させて頂いたのですが、スラっと背の高いスタイルが印象的で、テキトーなのに嫌味がなく、人に好かれるタイプの雰囲気が非常にマッチされていたと記憶しています。
狐の嫁入りのシーン。
ここで流された涙に胸を打たれ、自分も涙を堪えるのに必死でした。

C役。
無知故の無邪気さ。そう見えるのは表面だけ。
その底にある、悍ましい愛憎。
無邪気に見えるからこそ増幅させる、心臓を掴まれるような恐怖。
深川さんの演じるCは、深川さんの普段の誰にも負けない明るさがその狂気を何百倍にも膨れ上げさせていました。

深川さんのイロ。
Cに与えられたイロ。
それがあまりにもマッチした、まさに「ハマり役」だったのではないでしょうか。

本当の狂気とは。
それをまざまざと感じさせてくれました。

D役。
誰に対してもドライな人。
オモテの顔として超人気配信者という姿を持ちながら、それ故にその姿が壊れるのを恐れ、心に壁を作る。
冷たいというよりは、意図的に人と距離を取るようにする。
しかし、決して人が嫌いなわけではない。
そんな複雑な心模様を、吉岡さんが絶妙な声「イロ」で演じられていた印象です。
少しだけキモオタを出すなら「あー! こんな風に冷たくあしらわれるの、たまんねー!」という印象でした。
故に、誰にも言えず、しかし隠しても隠しきれない大切な想いが表れるシーンでは、言い切れない切なさを感じたのは言うまでもありません。

彼女たちが抱える想い。それぞれの思惑。愛故に。

ここからは物語や人間関係について。
公演のタイトル通り、今回のテーマは「百合」そして「愛の形」だったのではと考えています。

この「オトモダチコミュニティ」というオフ会は、決してその名の通り、真の意味でも友達作りが目的ではありません。
百合。
言い換えるなら、レズ。
登場する彼女たちは全員、女性として女性に好意を寄せています。
いつからそれを自覚したのかまでは語られていませんが、少なくとも現在、そして劇中で語られている1年前には、すでに全員がその自覚を持っています。
また同時に、それはまだマイノリティであり、それはわざわざカミングアウトするかの選択を強いられているものとして描かれています。
故にCを除く3人は、伝えることで壊れてしまうことを恐れ、自分の中に抱え込むことで、益々その想いを肥大化させています。

一方でCは想い人に対しては歪みきった真っ直ぐな愛を向けて、湧き上がり続けるその想いを止めることをしません。
しかしその行為はどこまでも利己的で、悪意なく全てを正当化することができてしまい、悪意はまるでありません。
悪意がない。
つまり、それはCにとっては絶対的に正しく、間違っていたらそれは相手や周囲である、という方程式が常に成立しています。
また、自分が与えた愛は等価以上に返されなければならないと考え、返されないならば返さないことを糾弾することを厭わない、どこまでもエゴイスティックな人物です。

そんな彼女は1年前。
その愛を向けていた相手への「究極の愛」をぶつけます。
愛した相手を、永遠のものとする。
身勝手の境地に至ってしまい、愛した相手を手にかけました。
しかし彼女は、意図してか本能的かは不明ながら、そのことをなかったかのように振る舞います。
また、今は同じようにDの表の顔「ホトトギス」を似たように愛し、どこまでも一方的な愛を投げかけ続けていました。

そのホトトギス「D」は、密かにBを想っていました。
しかしBは、Aの双子の妹、リリを愛している。
リリとAは、家族としてお互いを大切に想っている。
決して交わることのない矢印が出来上がっていました。

4つの愛の形。

Cは、愛すると決めたモノへ、自分の愛をひたすらぶつけ、それが返ってくることを望む。

優しい人柄故にCの誤解を招き、歪んだ愛をぶつけられ、応えることができなかった「白百合」ことリリは、その身勝手さに翻弄され、命を落とす。

同じく「白百合」を愛するBも、彼女が応えることはないことを悟っていたBは、同じ悩みを抱える仲間を集い、傷を舐め合うことで、自分の心を慰めようとした。

それをわかっていたから、Dは自分の叶わない想いに蓋をして、理解ある後輩という立場でBを愛することを選んだ。

しかし。愛するものを守れなかったAは、最後にそれを奪ったCを手にかけ、最後には自分も愛する者の元へ逝くことを選択した。

「愛する」とは、こうも形が変わるものなのか。
そして、愛するとは何なのか。
自分の在り方を振り返らせるには、十分すぎる内容でした。

夜の部(千秋楽)について。

夜の部は一部キャスト、配役が変更。

A役に深川芹亜さん。
Cを演じる時とは違い、無邪気さというよりはキャラクターに当てられた大人っぽさを演出されていた印象です。
Cがあまりにもハマっていたという印象が強かったのですが、ふと見せる決意の表れや、ラストにかけての表情など、また違った「イロ」を見せていただきました。


B役は吉岡茉祐さん。
長谷川さん以上にカラッとした印象となり、ともすれば中性的な印象すら受けました。
しかしそんな中でも愛してしまう可愛さを持ち合わせており、憎めない愛らしさが表れていました。

C役は安齋由香里さん。
すでに昼の部を観劇していたこともあるかもしれませんが、安齋さんの演じるCは最初から狂気の暴走を感じさせ、明らかに異常である。しかしそれに気づくまでに時間がかかるような、安齋さん自身のもつ「愛らしさ」が、深川さんとは全然違う「C」への「イロ」付けになっていた印象です。
また、「推す」という表現は普段の安齋さんの姿そのもので、その「イロ」がまた本来Cに割り振られた狂気とは別のものが表れており、非常に安齋さんらしさを感じざるを得ませんでした。
事前にツイッターで散見されていた「安齋さんの演じるCが早く観たい」という感想を、私もそのまま抱いて客席にて待機していたのをよく覚えています。

D役は主催でもある、松田彩希さん。
あまりにも美しい顔立ち故、そのドライさが際立ち、ますます人を突き放すような印象を際立たせていました。
故に、Dの放つ「おはよう」の重大さが輪をかけて増して、Dの変化、真の感情の表れに、より大きなギャップを持たせていたと感じています。
また、だからこそCとの一夜での距離感、Bへの想いを伝えるシーンには、どのシーンよりも感情の昂りを覚えました。

推しを愛するということ。人を愛するということ。自分の在り方。

ここからは自分語りが多めになります。
作品の感想もなくはないですが、苦手な方はそのままブラウザを閉じていただければと思います。

私は人と仲良くなることが苦手です。
人との距離の詰め方が、そこそこ年齢を重ねた今でも、わからないのです。

今作は「百合」という大きな障壁があるからこそ、というのがネックになっていましたが、根本的には「人が人を愛する時の仕草」をまざまざと表現していたと感じています。

Aのように、失われた愛を取り戻すために、自らの命を投げ出すことすら厭わないのか。

Bのように、叶わないと理解して、代替的な方法を取ることを選択し、心が壊れてしまうのを防ぐことを選ぶのか。

Cのように、相手の迷惑を顧みず、自らの愛を捧げることが正解だと考え、躊躇わないのか。

Dのように、叶わなくても想い人の幸せを願い、その人の友人・知人として、その人の幸せのために尽くし続けるのか。

自分は何とか倫理観を保てている間は、Cに限りなく近いAのような振る舞いをしていることが多いなぁ、と省みていました。

とにかく極端で、自分が崩壊することも厭わないが、それがどこかで破綻した時、Cのように愛が返ってくることを期待して、勝手に裏切られた気分になる。
傍迷惑そのものですね。何なんでしょう。

それを何度か経験し、その極端さを理解できている間はそうならないように最初から不必要に近づこうとはしなくなりました。

が。

ひとたび「この人なら大丈夫かもしれない」と思い込むと、それはそれはまぁ極端になります。
また同時に、愛が返ってくることをCのように望んでしまい、返ってこなくなったと解釈した時に、ぐーーーんと距離を取りたがります。

面倒臭いことこの上ないですね。
改めて自分のことが嫌いになります。

多分、恋愛感情に限らず、人と人とのコミュニケーションなんて、こんなに無駄に深掘りする必要なんてないんだと思います。
もっと手軽に、もっと気楽に人と接すればいいんだろうし、多分世の中の多くの人が何も意識せずそうしているんだと思います。

しかし、気持ちの振れ幅が0か100かみたいな自分には、それがなかなか上手くできない。
随分綺麗な言い方をしますが、本当に人付き合いの仕方が不器用なんです。

実際それで少し前に色々面倒臭いことになっ(たような印象を受け)て、あらゆる人から距離を取っていた時期がありました。
今もその名残で、「この人いい人そうだなー」とか「面白い人だなー」と思っても、自らの失敗で嫌われることを恐れて、話しかけられないことがほとんどです。

今自分が色んな形で自分を発信・表現している理由も、ある種「これを面白がってくれる人は、きっと自分のことをそうそう嫌いになることはないだろう」という振り分けをしている部分が少なからずあります。

好きになったら、嫌われたくないんですよ。
けど、愛しているつもりでもそれがエゴイスティックな行為なら、嫌われる要因としては十分なんですよね。
下手に弁えようとするがために、「嫌われたな、嫌がられたな」と感じたら、その瞬間から極端に話しかけることがなくなるだけではあります。
けどそれもそれで「こいつ面倒臭いな」という印象に拍車を掛けるだけである、というのも、頭のどこかで理解はしています。
しかし、それをまだ制御することができないんです。

また、今回のCの初期の立ち位置。
「推し」というものへの愛の向け方。距離感の取り方。
これもまた、自分の行動について考え直さねばならないと思わせてくれました。

画面の向こうの人との関係。
こういうコンテンツに身を置いていれば、その議論に巻き込まれたことがない人はそうそういないでしょう。
その壁を無理矢理越えるのはもちろんアウトですが、最後の壁はともかく、それまでのボーダーラインが明確ではないからこそこの議論が絶えることはないし、おそらくどんなに議論したところで「法に反してない限りは受け手次第」という結論に落ち着く他ないんだと思います。

今回のCの台本上のセリフたち。
配信者「ホトトギス」のありとあらゆるモノ全てに目を通し、全てにコメントやリアクションを取る。
受け手にとってそれを「愛」と捉えるか「迷惑」と捉えるかは、本当に人それぞれとしか言いようがありません。

しかし、それを生業とする以上、それらの愛を拒否したら、仕事として成立しなくなる可能性が大きくなるのも、こういう仕事の宿命。

しかし、これも結局は愛し方の問題であり、不器用な自分はいつも自分を制御することと戦わざるを得ません。
求められることだけをすれば「いいお客様」として居続けることができる。
しかし、1対1の関係で完結しない以上、より愛されているように見える人に嫉妬を覚えるのも、また宿命。

もっと愛したい。
もっと愛されたい。
だけど、嫌われたくはない。

恐らく私はきっと、こんな不器用な愛し方を全て受け入れてくれる誰かを、永遠に探し続けるのでしょう。
奇跡的に出会えたならば、恐らく今よりも遥かに極端な愛し方をするのでしょう。

それでも、ただ手を広げてくれる人がいるならば。

改めてそんなことを考えていました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?