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図工の時間は「あ!そうだ、いいこと考えた」が生まれる時間

芦屋市立精道小学校の図工展の最終日に行ってきた。

体育館を丸ごと借り切った会場をフルに使い、それこそ逞しい生態系を持ったジャングルのような感じで、子どもたちの作品群がひしめき合っていた。

どの作品も、図工の授業で制作されたもので、どの題材も子どもたちの「つくる楽しさ」を引き出すようなものになっていた。
とは言うものの、別に特別な素材や技法を使っているわけではなく、いたってシンプルで、よく吟味された題材である。

低学年は担任の先生による指導となるようだが、題材設定や指導のポイントについては図工専科の秋山先生が説明をしているようである。

平面作品にしても立体作品にしても、扱う素材の多様さは特徴的である。安価なものや廃材利用が多いが、量は潤沢に用意しているのではないかと思われる。
連想したのはレッジョ・エミリアの芸術教育やブルーノ・ムナーリの言葉だ。具体的には豊富な素材体験と試行錯誤を重ねる姿勢。あと少し笑えるユーモアも。

子どもたちの創造性と経済的な事情を天秤にかけた時に、そこはケチってはいけないということなのだろう。たしかに、別に贅沢をするわけではないが、子どもたちの創造性にとっての阻害要因となるものは極力省きたいところではある。

体育館のステージ裏に設定された”暗闇の世界”に並べられた全校児童の「灯り」の作品は圧巻である。
刻々と色の変わるLEDライトの上に、紙で作ったオブジェを置いてあるシンプルな作品群ではあるが、全員で展示したことや、暗闇の中で色とりどりに光る景色は、子どもたちの記憶に強烈な芸術体験として刻まれることだと思う。

造形遊び的なアプローチが多いので、制作時間は割と短かったりする、と秋山先生。だが、むしろ同じような活動を何度も繰り返し試してみて、その中でまた変化していったりすることも含めて、表現することを楽しんだ軌跡が、作品から見られるような気がした。
「いい作品」を残すことよりも「いい体験」を重ねることに価値を置いているように思う。

ムナーリが著書「ファンタジア」の中で「創った作品を壊す」ということについて書いていて、僕の中では大切な考え方として刻まれているのだが、それに近い考え方を感じた。

じっくりと作品を観ていくと、なかなか味わい深い作品に遭遇することとなる。
低学年にしろ高学年にしろ、愛おしい個性や深い世界観を持った作品があり、何人かは「スゴイ奴」がいて、作品を前にひとりでほくそ笑んでしまった。

いろんな方向にトンガった奴はいるもので、それをしっかりと表現できているのがいいなと思う。

学校や教師はひとつの「環境」である、というのが僕の持論ですが、子どもたちのトンガリを抑制するような環境にはしたくないなと思うのだ。

図工展には家族連れで観にきていることが多いが、子どもたちもたくさん観にきている。
その子どもたちの鑑賞する姿を観ているのがとても楽しくて、嬉しい気持ちになった。
いろんな作品を観て、これスゴイよ!こっち来て!これ観て!とコーフン気味に大人の手を引っ張る子。
床に置かれた作品を、床に這いつくばって、頬杖をつきながらじっと観ている子。
上級生の作品の技法について、これはこうやって作ってんねんで、と親に説明する子。
作品から連想することを、友達同士で思い思いに話す子たち。

子どもたちは自分の眼で作品を観て、しっかりと批評している(しかもそれは結構スルドイ)
子どもたちとの鑑賞は、そういう視点に引き戻してくれるというか、新たな発見があるというか、新鮮な空気が自分の中に流れ込んでくるので、ホント楽しいのである。

いい展覧会でした。

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