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Biggie Smallsという男を知っているか(第1部:生涯編)

急いで生きないと。死に追いつかれないように」と語ったのは、"エデンの東"でアカデミー賞主演男優賞にノミネートされ、24歳の若さで交通事故でこの世を去ったアメリカの名優 James Deanである。

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我々は何を基準に人々を評価するのだろう。才能、功績、人柄。資本主義社会では競争を勝ち抜き、「結果」を残したものが評価されることが連続の日々。だが、時に「死」によって評価される人物も存在する。死ぬ事で伝説となり、人々は「今あの人がいればどうなっていたか」を語り継ぐ。今回は、US Hip Hopを聴く上で避けては通れない、James Deanと同じく24歳で亡くなった Biggie Smalls/The Notorious B.I.G.(本名: Christopher George Latore Wallace)の生涯を紹介する。

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1. 幼少期

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Christopher George Latore Wallace(以下: Biggie) は1972年5月21日にNew YorkのBrooklynにあったSt. Mary's病院(現在は廃院)で産声を上げ、ジャマイカ系両親の下で育った。母 Voletta(上の写真左)は保育園で働き、父 Selwynは溶接工の仕事の他に、地元で政治活動も行っていた。Biggieが2歳の時に父親が失踪したため、その後は母が2つの仕事を掛け持ちして家計を支えた。下の写真はBiggieが6歳の時のもの。

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Christopher George Latore Wallace という名前の中には"Biggie"と関係している単語は一切ない。彼は10歳にして周りの子どもより"肥満"であったため、"Big"というあだ名をつけられた。12歳からドラッグディーラーを始め、「母は仕事漬けの毎日を送っていて、自分がドラッグディーラーをしている事を大人になるまで知らなかった」とNew York Timesのインタビューで語っている。

Queen of All Saints中学校時代、Biggieは英語の成績がとても優秀だった。Roman Catholic Bishop Loughlin Memorial高校に入学後も英語の成績はとても良かったという。この高校、New York Cityの治安改善に力を注いだRudy Giuliani元New York市長(下の写真)も輩出している名門である。

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Biggieはその後George Westinghouse Career and Technical Education高校に転入。この高校にはDMXやJay Z、Busta Rhymesと言ったNew York出身のラッパー達も在籍していた事で、New York Hip Hopマニアにはたまらない高校である。余談だが、この高校でJay ZとBustaは頻繁にフリースタイルバトルを行っていたそうで、Jay Zの圧勝だったらしい。Biggieは転入後、学校を無断で欠席する事が増え結局1987年に退学している。1989年には武器の不法所持で5年間の保護観察処分を受けた。翌年には暴行の罪で逮捕され、更にその翌年にはクラックの売買で9ヶ月間刑務所に入所。Biggieのラップキャリアは刑務所を出所してから始まる事になる

2. Sean Combsとの出会い

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出所後、彼はBiggie Smallsという名でデモテープを制作。その音源がこちら↓

Biggie Smalls というMCネームを、彼は1975年に公開された映画 "Let's Do It Again"のギャングリーダーの名前から取った。彼はデモテープを製作した理由について、「自分自身のラップを聴くのをただただ楽しみたかったから」と語っている。「ただただ楽しみたかったから」と語った黒人が、まさか死んだ後も語り継がれる人物になるとは当時誰も思っていなかっただろう。このデモテープは彼の予想を良い意味で裏切った。Hip Hop界に多大な影響を与えたBig Daddy Kaneの同胞であるMister Ceeにデモテープが届き、その後The Source(というアメリカのHip Hop専門誌)の編集部にまでBiggie Smallsという名前は知れ渡った。1992年3月にはThe Sourceで今後活躍が期待される無名アーティストを紹介するコラムに取り上げられた↓

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上の画像内の評論を以下に和訳する。


君がラッパーを志していて、カッコいい音源を作る事が出来ると思っているのなら、スタジオに行ったり大金を積んでカッコいいデモを作る必要はない。4-トラックのカセットすら必要ない。2つのターンテーブルとマイクを準備して、テープレコーダーを押すだけで十分だ。
彼はそれを体現している生き証人だ。DJであるHitman 50 Grandがビートをまわし、Biggieがそれに乗っかる。New YorkのBrooklynからやって来たBIGな奴はとんでもないスキルを持っている。彼のライムは彼の体格よりも図太い。
彼の4つの音源は基本的にフリースタイルで構成されている。もちろん、MCはたくさんの事を考えなくてはいけないが、Hip Hopにおいてライムスキルが1番大切であろう。B-I-Gはそれを得ている。

ライム、つまり「韻を踏む」というスキルを褒めちぎられたBiggie。デモテープはその後、現Universal Music傘下のUptown Recordsの担当者とプロデューサーのSean Combsに渡った。Sean CombsがBiggieとの会談を設け、すぐにUptown Recordsと契約した。その後、彼は同レーベルのHeavy D & the Boyzの A Buncha Niggas に客演として参加。

しかし、その後Sean CombsはUptown Recordsをクビになる。レーベル創設者のAndre Harrell曰く、Sean Combsをクビにした理由を「次の世代へ繋げる為だ。Sean Combsを更に金持ちにさせるには解雇という選択肢しかなかった」と語っている。Sean Combsはその後全世界で知らない人がいないほどの富裕層にまで登り詰める。結果的に彼がUptownを離れたのは(金持ちになったという意味では)正解だったのかもしれない。Sean Combsはその後Bad Boy Recordsを設立。Biggieは契約金として日本円で約260万円をSean Combsから貰い、Bad Boy(悪い少年)の一員としての道を突き進んで行く。

2.5. Sean Combs、Bad Boy Records、そして戦争へ

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Sean John Combs(写真上/以下: Combs)は1969年、New York Cityに生まれた。今回の記事はBiggieがメインのため、Combsの幼少期の物語は明記しないが、Biggieの人生と大きく関わりがあるので少し説明する。

Combsは大学でビジネスを専攻したが、2年次に中退。1990年、Uptown Recordsにインターン生として加わり、今でも精力的に活動を続けるR&BグループのJodeciや、歌姫Mary J. Bligeらの発掘に携わった。また、当時彼はチャリティーイベントなどを多く企画し高い評判を得ていた。この時から彼の"企画"の才能は開花していたと言える。先に書いたように、CombsはUptown RecordsをクビになりBad Boy Recordsを設立。その筆頭が、2018年に他界したCraig Mackと今回の主役であるBiggie Smallsであった。

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Bad Boy Recordsは後述するBiggieのReady to Die、Craig MackのProject Funk da Worldを1994年9月にリリースしてから、New Yorkのアーティストのみならず2000年代に始まったDirty South(アメリカ南部のHip Hopムーブメント)のYung Joc、Young Jeezy(現Jeezy)が加わったBoyz n da Hoodなどを輩出。現在でもMachine Gun KellyやFrench Montanaなどが在籍している。音楽業界には多くのレーベルが存在しているが、Bad BoyはCombsの影響力とBiggieが在籍していたことでその知名度は今でも高い。そして、当時その知名度を更に押し上げたのが、East Coast vs West Coast Hip Hop War であった。

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今やHip Hopは世界中で聴かれる(文化としてではなく)音楽ジャンルになった。日本でも"ラップ"が流行り、今後も盛んになる事は良くも悪くも間違いない。そんなHip Hopは読者の多くもご存知の様に1970年代にNew Yorkで誕生した。多くのアーティストが出ては消えていくが、それでも"New York"/"New York City"という地名が"Hip Hopの聖地/本場"として鎮座し続けている。中高生の諸君、時間が有り余っている今のうちに是非一度New York Cityを訪れて欲しい。大人になったら社会の奴隷になって思うように休みが取れない。気付けば20代後半になってどんどん鬱に(以下省略)。下の写真はManhattanの摩天楼↓

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そんな中、1980年代からUS Mainstream Hip HopにNew Yorkとは真反対のWest CoastはCalifornia州から"Gangsta Rap"なる物が流行し、Ice TやN.W.Aが注目を集めた。N.W.AのStraight Outta Comptonでは、ComptonというCalifornia州のLos Angelsにある地区を一躍全米に知らしめ、West CoastのHip Hopは全国区に伸し上がっていった。

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そして、1991年にはThe D.O.C.とDr. Dre、そしてSuge Knightが共同で Death Row Recordsを立ち上げた。

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Death Row Recordsから、Dr. Dreが The Chronicをリリース。もしも読者が私に「一番カッコいいと思うIntroは?」と質問したら真っ先にこのアルバムを紹介したいほどの名盤だ。

俗に言われる"G-Funk"というHip Hopのサブジャンルが浸透したのもThe Chronicがリリースされた後である。Death Row Recordsの快進撃は続き、Snoop Doggなどを輩出。気付けばWest CoastはHip Hopの中心地の1つとなっていた。"Hip Hopの聖地"奪還のため、New Yorkのラッパー達も黙っている訳がなく、Wu-Tang ClanNasといったUS Hip Hopシーンの最重要人物達がその後で登場してくる。

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Biggieの話はもう少し先にするとして、この両海岸のバチバチのバトルはTim DogというNew YorkのBronx出身のラッパーが発端とされる。1991年、彼は"Fuck Compton" = "Comptonは糞だ" というディスソングを引っ提げて表舞台に登場した。

上のPVを見てもらえれば一目瞭然。明らかにN.W.Aのメンバーをディスる曲である。Comptonのラッパー達もこれに反応。MC EihtをリーダーとするCompton's Most Wantedが"Who's Fucking Who" = "お前は一体どこのどいつだ"という曲でTim Dogを名指しで口撃している。こうして、East Coast vs West Coastが始まった。

3. ラップキャリアのスタートとThe Notorious B.I.G.

1992年、BiggieはCombsのBad Boy Recordsと契約。1993年、彼が長年付き合っていた女性との間に子どもを授かった。その子どもの名前はT'yanna。しかし、T'yannaが産まれる前に実はBiggieと彼女は別れていたのだ。それでも、彼は娘の養育費を払う事を当時付き合っていた女性に約束し、ドラッグディーリングを続けた。Combsにそれが発覚し、彼の説教でBiggieはドラッグディーリングから足を洗った過去を持つ。

同年、Biggieはthe Notorious B.I.G.としてMary J. Bligeと"Real Love"という曲で共演。Billboard Hot 100で最高7位となるなど高評価を得る。1993年にはthe Notorious B.I.G. 名義で初のシングルであるParty and Bullshitをリリース。↓のPVではCombsの姿も。

Combsによって名前をthe Notorious B.I.G.に変更させられたBiggie。Notorious は日本語に訳すと"悪名高い"の意味になる。B.I.G.に関して、Biggieは"Business Instead of Game" = "(ラップ)ゲーム/くだらない遊びよりもビジネス(=金)"と語っている。しかし、1995年のMTVのインタビューでは、"Bullet in the Gut"の略語と説明している。bulletは弾丸、gutは内蔵の意味である。つまり、内蔵の中にある弾丸 = 銃で撃たれた後 であろうか。その当時は東西戦争の真っただ中であった為、もしかすると「俺にちょっかい出すとお前の内蔵に弾丸を喰らわす」という意味が含まれているのかもしれない。Biggieはその事に関して言及していない。母のVolettaはB.I.G.は"Books Instead of Guns"の略語であると主張している。"銃よりも本"が直訳になるが、意訳をするのであれば"暴力よりも知識"となるであろう。教育者らしい母親の解釈である。

3.5. The Notorious B.I.G.とTupac Shakur

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1987年頃からラップキャリアを本格的にスタートさせたTupac Shakur(以下: 2Pac)。彼はMCとしてだけではなく、俳優業にも力を入れていた。Poetic Justice(という1993年の映画)に出演していた2Pacにもthe Notorious B.I.G. のParty and Bullshitは知られていた。そして、2Pacはそれを何回もロケ現場で聴いていたそうだ。BiggieはLAのドラッグディーラーの協力を経て2Pacと接触する。その時、Biggieは駆け出しのMCであり、2Pacはある程度の地位を築いていたスターだった。2PacはBiggieに多くの事をアドバイスし、ヘネシー(という酒)を贈るなど、公私ともに親密な関係になっていく。Biggieは「俺のマネージャーになってくれよ」と2Pacに依頼した事があったが、2Pacはそれを断り「Combsの側にいろ。彼はお前の事をスターにする」と伝えた。彼らの関係が拗れるのはもう少し先の話である。

4. Hip Hop史に燦然と輝くアルバム Ready to Die

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1994年8月4日、BiggieはR&BシンガーであるFaith Evans(上の写真右側)と結婚。その5日後、彼の"Juicy/Unbelievable"がリリースされ、チャートで27位にランクインするなどそこそこの滑り出しを見せる。

1994年に9月、US Hip Hop史に燦然と輝く Ready to Die = 死ぬ準備は出来ている という彼の人生を暗示するかのようなタイトルのアルバムを発表。チャートで13位になり、West Coast に押されていたHip Hop界であった当時においてEast Coast Hip Hopの復権と騒がれた。

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US Hip Hopを聴く人にとってはとても馴染み深いこのアルバムジャケット。私も中学時代にHip Hopと出会い、どこかで「Biggieを知らないとやばい」と馬鹿にされ、すぐに今は亡き横浜ビブレのHMVでこのアルバムを入手した。横浜駅から自宅までの電車の中、CDプレーヤーでReady to Dieを聴いた時は、「ん?これがやばいのか?」と疑ったが、やはりリリックや彼のライムの法則を分かるようになって初めて「んんん!!!」と唸るものがある

なんて言う私の昔話を書きたい訳ではなくて、ここで1つの疑問が...このジャケットの真ん中に座っている赤ん坊は誰なの?Biggieの小さい時の写真、娘のT'yannaではないか、Combsの子どもに違いない と言った様々な憶測を呼んだ。この論争に終止符が打たれたのは2011年。アルバムがリリースされてから17年も後の話である。Keithroy Yearwood というBronx出身男性の赤児時代の写真である事が判明した。彼はBad Boyと関係があった訳ではなく、モデル派遣会社が彼を起用することを決定をした。2時間の撮影の謝礼として約1万6千円を得たYearwoodは「赤児が自分と知れ渡ってから色んな人にどれくらいの謝礼をもらったの?と質問される。撮影当時は何にも考えられなかったけど、今となってはとても重大な事だと認識しているよ」とNew York Daily Newsに語っている。

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Ready to Dieの詳細は次回の記事【Biggie Smallsという男を知っているか(第2部:音源編)】で記載予定

4.5. 東西戦争の激化

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1994年、2Pacは映画撮影の為にNew York Cityに滞在していた。彼はその時 Jaques 'Haitian Jack' Agnant や Jimmy Henchmanとつるむようになる。この2人は当時からアメリカのエンターテイメント界で活躍していた人物であるが、Biggieは2Pacに「彼らとつむるのはよせ」とアドバイスしていた。2Pacはその警告を無視し、US Hip Hopの歴史が動く瞬間がやってくる

1994年9月30日、2Pacはレコーディングの為にNew York CityのQuad Recording スタジオに入る。その時、何者かが2Pacを襲撃し彼のジュエリーを奪った。2Pacはそのまま病院に直行。その後、そのスタジオにはBiggieとCombsがいた事が発覚し、2Pacは「奴らが今回の事件に関与している」と訴えた。なお、「奴ら」というのも音楽サイトによって様々であり、BiggieとCombs以外にも、UptownのAndre Harrellや先に登場したJimmy Henchamanも関わっていたと明記するものもある。Biggieはこの事件に関して、「俺は今でも彼(2Pac)を友人だと思ってる。俺があんな馬鹿な事をするはずがない」と話している。しかし、Biggieはこの事件があった後に"Big Poppa"をシングル曲としてリリース。そのカップリング曲のタイトルが"Who Shot Ya?" = "誰がお前を撃ったんだ?" であった。

Who Shot Ya?について、BiggieもCombsも2Pac襲撃事件の前に作ったと弁明したが、多くのリスナーが「Who Shot Ya? はBiggieから2Pacへのディスだ」と噂する様になる。これによりUS Hip Hopの東西戦争は激化の一途を辿る。

5. King of New Yorkの誕生

一旦2Pacとの抗争を離れ、彼の音楽キャリアの話に戻ろう。というのも、多くの読者も既に理解しているように、この辺りの時系列がかなり複雑なのだ。

1995年、Biggieの友人達で結成された Junior M.A.F.I.A.が登場。このグループにはLil' KimやLil' Ceaseが参加している。Junior M.A.F.I.A.はConspiracy (= 陰謀) というアルバムでデビュー。Biggieはこのグループの楽曲に多く参加し、その他にも112やTotalといったR&Bグループの客演もこなしていく。1995年7月には、The Sourceが"The King of New York Takes Over" = "New Yorkの王様を引き継ぎ者"というフロントカバーでBiggieを特集した↓

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"King of New York"というのは、1990年に実際にあった映画 "King of New York"から取られたものである。The SourceはBiggieを"持ち上げた"。1995年8月に行われたThe Sourceアワードで、彼はベスト新人アーティスト、年間最優秀リリシスト、年間最優秀ライブパフォーマー、年間最優秀新アルバム賞にノミネートされた。 また、あまり知られていないが同年12月にはMichael JacksonのThis Time Aroundの客演も務めている。

1995年、結果的に見ればBiggieはアメリカの音楽チャートに登場する最も"売れっ子なMC"となり、MTVアワードのプレゼンテーターを務めるなどHip Hopを聴く聴かない関係なく知名度を得るようになった。下の動画はMichael JacksonとBiggieが一緒に映っている瞬間を捉えた映像である。

5.5. Death Row Recordsの逆襲

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1994年にNew Yorkで襲撃され、その犯行にBiggieやCombsが関わっていると訴えた2Pac。その後、彼は別件で刑務所に入る事になる。彼が服役中、Death Rowの首領であるSuge Knight(写真上/以下:Knight)がThe Sourceアワードで多くのアーティストに向けてこんな発言をする。

"Any artist out there that want to be an artist and stay a star, and don't have to worry about the executive producer trying to be all in the videos ... All on the records ... dancing, come to Death Row!"

「アーティストやスターに憧れてる奴らに告ぐ。PVの中でプロデューサーが踊る事は心配するな。とにかくDeath Rowに来い!」


この「PVの中でプロデューサーが踊る」という表現は間違い無くBad BoyのSean Combsに向けられているものだった。CombsはBad BoyのPVに必ずと言っていいほど参加しており、その中でアドリブで踊ったりしていた(正直かなりダサイ踊りです)。Combsなりのプロモーション方法であるが、Knightはその行為を一刀両断したのである。また、会場がNew Yorkだった事もありKnightの発言は"聖地"への宣戦布告と捉える事が出来た

事件は更に続く。AtlantaのクラブでKnightのボディーガードがCombsの側近に撃たれ、4日後に死亡するという事件が起こった。KnightはこれをCombsが命令したものと訴える。この辺りから音源を飛び越え、実際の戦争に突入してしまう両海岸。そしてKnightはある人物に目をつけた。それが2Pacである。

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Knightは服役中の2PacにDeath Row Recordsとの契約を条件に多額の保釈金を支払う事を約束した。

Death Row Recordsは次の刺客としてTha Dogg Poundを送り込む。彼らは"New York, New York"を1995年9月に発表。Snoop Doggを客演として呼び、New York Cityのど真ん中でPV撮影。そして摩天楼をぶっ壊すというNew Yorkを完膚なきまでに馬鹿にした曲を発表↓

これに対抗するかのように、翌年にはNew YorkのCapone-N-Noreagaが"LA, LA"を発表。LAのキャップを被っているWest Coastラッパー擬きを拉致する過激な描写が見られる↓

6. The Notorious B.I.G.の苦悩

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メディアの露出が増えるようになったBiggieは1995年の9月から次のアルバムの制作に取りかかった。先に述べたMichael Jacksonとのコラボレーションや、現在アメリカでロリコン疑惑が(まぁ、前からなんだけど)浮上しているR. Kellyなど、多くの大物アーティストと共演をしていく。余談であるが、BiggieはMichael Jacksonとのコラボを初めは拒否していた。その理由は1993年にMichaelに児童性的虐待の疑惑がかけられていたためである。

1996年3月、Biggieはサインを求めるファンに殺しを仄めかして逮捕される。翌月には警察が彼のNew Jersey州の自宅から50gの大麻と銃器を押収。その後も暴行容疑で逮捕されるなど、1996年は彼にとって災難な年となった。

6.5. 2Pacの逆襲

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1995年10月、2Pacは釈放されOutlaw Immortalzというグループを結成。そして、Death Row Recordsに加わった。1996年2月、2Pacは"All Eyez on Me"をリリース。当時の東西戦争をメディアが煽っていた事もあり、このアルバムは累計900万枚以上のセールスを記録した。同年6月には"Hit 'Em Up"を発表。

しょっぱなからBad Boy Killer (= Bad Boy Recordsを殺す奴)なんていう物騒なリリック。そしてBiggieの嫁であるFaith Evansとセックスした事があるというマニアにはたまらないプレイを曝け出し、Biggieをラップでボコボコにする事に成功したのである。

その後、BiggieはBrooklyn出身のJay Z のデビューアルバム Reasonable DoubtのBrooklyn's Finestに客演として登場し、"If Fay' had twins, she'd probably have two Pacs (uh!) Get it? Tu... Pac's?" = "Faith Evansが双子を授かったら 2つの パ ッ ク だな。分かる? 2Pacの って事だぜ?" というワードプレイ(= 言葉遊び) を披露している。

Brooklyn's Finestが収録されたのがHit Em' Upお披露目の前という話も存在するため、具体的に2Pacに直接あてられたものではないという考えもある。また、それよりも前に2PacとFaith Evansの間にはそういう噂があったため、それを取ってBiggieが言葉遊びをしているという話も。

兎にも角にも、東西戦争はこれらの楽曲を出し合うなどメディアの注目を集めに集めまくった。当時はこんな雑誌のカバーで購買意欲を掻き立てていたのだ↓

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East Coast vs West Coast Hip Hop War、東西戦争はその後激化の一歩を辿ると誰しもが思ったに違いない。メディアはそれに乗っかった

これはあくまでも管理人の予想であるが、Death RowのSuge Knightも、Bad BoyのSean Combsもメディアにもっと注目されたかったのであろう

メディアが煽る

リスナーの興味が(更に)湧く

曲を発表されれば注目される

結果的に金儲けが出来る

という仕組みである。

今と何も変わらない。流行は勝手に出来る物ではない。メディアがそれを煽っているだけなのだ。

7. 1996年9月7日

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1996年9月7日、2Pacは友人であったTracy Danielle Robinsonの誕生日を祝うため、そしてMike TysonとBruce Seldomのボクシングの試合観戦の為にNevada州のLas Vegasに滞在していた。ボクシングの試合の後、2PacはKnightと共に車でKnightが所有するクラブに行く途中にキャディラックに横付けされ4発の銃弾を浴びた。2発は彼の胸に、1発は腕に、もう1発は腿にあたった。Knightもこれにより被弾。不幸な事か、この時2Pacのボディーガードは2Pacの彼女の車を運転していた。1996年9月13日、彼は内出血により死亡。Death Row Records は The Don Killuminati: The 7 Day Theory を彼が死んだ後の1996年の11月にリリース。このアルバムは彼の5枚目のスタジオアルバムであると共に、生前に収録された最後のスタジオアルバムとなった。

もちろんこの事件でBiggieは容疑者の1人にあがったが、その時スタジオで収録をしていたとして容疑を真っ向から否定している。なお、BiggieはMTVの当時爆発的に流行っていたRap City(という番組)のインタビューで2Pacの死について質問され、「今まで一番ショックな出来事だった。彼が力強い男だと知っていたから、撃たれた時にはまたか?と思ったけど、死人は戻ってこないから。何があろうと、俺たちは歩き続けなくちゃいけないんだよ」と語っている。

2Pac殺人事件は今でも謎が多く残る。一番の謎は、誰が2Pacを殺したのか。そして犯行理由はなんだったのか。この事件が起きる前に、2PacはLAのギャングといざこざがあった事から、ライバル関係にあったギャンググループによる犯行だとか、死ぬ前の車に2人の女性が2Pacに声を掛けたから、それが何かのサインであったとか、今でも謎が尽きない。享年25歳だった。

8. 1997年3月9日

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1996年のハロウィーンにリリースされる予定であったBiggieのセカンドアルバム Life After Deathは、彼の不祥事などもありリリースが延期されていた。1997年に入り、BiggieはLife After Deathのプロモーション活動を行う。同年3月5日にはSan Franciscoのラジオ局で「Life After Deathは3月25日にリリース予定だ」と語った。

3月7日にはLos Angelsで開催されたSoul Train Music アワードに参加。この時Biggieは観客席からブーイングを浴びせられる。それもそのはずだ。Los AngelsはDeath Row Records、そして2Pacの拠点であったのだ。その2日後、彼は2Pacと同じ道を辿る事となる

1997年3月9日、BiggieやBad Boy Recordsのメンバー達がLos Angelsで行われていたパーティーに参加していたが、観客が多過ぎる事を理由に消防局からパーティーの中止を伝えられた。その後、彼らは車で宿泊していたホテルに移動。Biggieが乗った車にはJunior M.A.F.I.A.のメンバーであるLil' Ceaseなどが乗車。Sean Combsは3人のボディーガードと同じ車に乗車した。赤信号でBiggieが乗車していた車が止まった時、突然インパラに横付けされ、その車のドライバーが窓を開けBiggieに向って発砲。彼に4発が命中。後々分かった話として、4発中3発は命に別状があるものではなかったが、最後の弾丸が彼の大腸、肝臓、心臓を貫通しており、これが決定的な死をもたらした。享年24歳。

この事件があった後、多くのメディアとUS Hip Hopリスナーは2Pacの死との類似性を疑った。車で横付けされての銃撃、それを英語ではDrive by Shootingと言う。2人とも4発の銃弾を被弾した事。そして、

Death RowとBad Boyの両陣営のトップは助かったこと

この事件も2Pac同様迷宮入りしている。Biggieの母親であるVolettaが警察の不祥事であると、LAPD(Los Angels 警察)を訴えたり、Death RowのSuge Knightの差し金であるという説など。

2PacとBiggieの死は、今でも多くのドキュメンタリー映像や本が登場するなど、ビジネスの1つの形となってしまっている。

9. Biggie Smallsの死

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Biggie Smalls(享年24歳)の葬儀は彼の地元であるNew York CityのBrooklynで行われた。親族や友人、そして多くのNew York市民が見守る中、彼はLos Angelsから帰還したのだ。警察も出動する中、「お前がキングだ」と叫ぶ人、暴動を起す人、それを静止しようとする人など半ばお祭り騒ぎである。彼がNew Yorkに与えた多大なる影響が垣間みれる動画があるので是非見て欲しい。日本ではなかなか見る事が出来ない光景である↓

自分自身のラップを聴くのをただただ楽しみたかったから」と語った人物の死は、その後のUS Hip Hopに多くの影響を与えたが、それを書くときりがないのでこの記事ではここまで。

10. Life After Death

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銃声が聞こえた後、

「おいBig!? なぜだ。俺たちが世界を支配するんじゃなかったのか?俺たちは止まることを知らなかった。乗り越えられるはずだ。俺の声が聴こえてるだろ。まだやるべき事がある。やらなくちゃいけないことが山ほどあるんだぜ。まだ終わってない。さぁ、生き返ってくれよ。」

というSean Combsのイントロから始まるthe Notorious B.I.G.のLife After Deathが発売されたのは、彼が死んだ後、彼がラジオ局で伝えた通り1997年3月25日であった。

1枚目のアルバムタイトルがReady to Die、今回はLife After Death。

死ぬ準備は出来ている → 死後の世界

まるで彼の人生が運命付けられていたかの様なタイトルである

管理人が中高生の読者に最もおすすめする
US Hip Hop アルバムはLife After Deathだ

2Pacと同じく死後発売されたこのアルバムはRolling Stone誌の"この世でも最も偉大なアルバム500選"にも選ばれている。東西戦争真っただ中に収録された音源が多く、Death Row Recordsを"間接的"に口撃している曲やある事件をテーマとするストリーテーリングなど、それは次回の*【The Notorious B.I.G.という男を知っているか(第2部:音源編)】で紹介したい。


Biggie Smallsは24歳で死んだ。彼の死後、"King of New York"は不在と言われている。それは彼の激動の人生も然ることながら、彼の2枚のスタジオアルバムが伝説となっているため。そして何と言っても彼の殺人事件が解決しないためである。今までBiggie Smallsという名前を何となく知っていたけど、いまいち生涯を知らなかった読者も多いはず。このご時世、ジェットコースターに乗って叫んでるだけの輩や、ひたすら銃をカメラに向ける、SNSのライブ配信で大麻を吸って煽る人、自前ではなくレンタカーの高級車の上に座ってヘラヘラ歌ってるだけのアーティストなどなど、本当に時代を感じる人々が多い中で、Biggie Smallsはこの時代をどう見るのか。「死人に口なし」とはよく言ったものである。

さて、次回はBiggie Smallsの2枚のアルバムの解説記事を掲載予定。彼のアルバムを聴いて影響されたUS Hip Hop アーティストはとても多い。Ready to Die と Life After Deathの解説を丁寧にしていくとしよう。

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*今回の記事では多くのサイトを引用しています。同じ内容の記事によっては一部日付がズレていたり、登場人物に誤差がある事をご理解ください。

                            Article by YA

私に生きる希望をください。