歴史オタク先生との出会い。
小学6年生になった。
担任の先生は、5年生からの持ち上がったK先生。
今は連絡を取り合うことはないが、わたしの人生に大きな影響を与えた恩師のうち、3本の指に入る。
いや、ナンバー1かもしれない。
当時30代前半~半ばだったK先生のひょうきんで、人間味のあるキャラクターは、子どもたちの心を一瞬にしてわしづかみにした。
その内で、ひとりひとりの子どもの潜在的能力を見極め、尊重し、最大化させる、素晴らしい能力を持っていた。
褒めるときは、ものすごく褒め、
叱るときは、鬼のように叱った。
そこには愛があった。
「自分で考え、判断、行動」と常々口にし、「生きる力」を育んでくれた。
それまで不登校気味だった子も、K先生が担任になると、ほぼ毎日投稿するようになった。
クラスは一体感に包まれていた。
*
K先生は中学高校より小学校での教員歴の方が長かったが、
専門は社会科。
「歴史だけなら、東大に入れた」と冗談交じりに言っていたが、自分も高校生になって「世界史だけなら、東大に入れた」という状況になったので、あれはまんざらでもなかった、と後から気づいた。
6年生の社会科では、ほぼ1年の2/3を費やして日本の歴史を学ぶ。
K先生の社会科への熱の入れ様は、ハンパなかった。
(エピソードを語り始めると1記事かけそうなので、ここでは割愛)
そして、いつのタイミングだか忘れたが、
「年に1回、社会科の研究授業の全国大会があって、今年は岐阜県の番。
その指定校に、うちの学校が選ばれた。
2月に全国中から社会科の先生が、うちらの授業を見に来るぞ。」
という話があった。
研究授業は校内では定期的にあったから、不思議なことではなかったが、
なんだかすごいことなんだな、と思った。
後日談なのだが、
K先生はわたしたちの5・6年生の担任を持って、その2年間で異動になった。
当時の校長先生も専門は社会科だったことを後から知り、わたしたちの卒業と同時に、定年退職した。
つまり、社会科の全国大会の指定校がうちの小学校に決定したことで、
人事がすべて逆算的に仕組まれていたのだ。
K先生は、社会科の全国大会のためにうちの小学校に着任し、
2年間かけてわたしたちに歴史と思考力と団結力をたたき込み、満を持して全国大会に臨んだ。
大人の事情とはいえ、こんな大人の事情だったら、巻き込まれた価値は大いにあった。
*
さて、K先生の歴史講義は、時代が進み、全国大会が近づくにつれ、熱を増した。
進度を間に合わせるために、学活(学級活動)の時間も社会科に返上することもあった。
映画「二〇三高地」も授業中に観た。
(時効だから言ってしまうが、もうなんだか、やりたい放題…)
強烈なシーンと、さだまさしの「防人の歌が」だけが記憶に残っている。
2月の全国大会の研究授業で取り扱う時代は、「太平洋戦争期」だった。
授業の進度と合わせて、という理由もあっただろうが、それ以上の理由があったと察する。
戦争学習の手始めに、
やはり「祖父母の戦争体験を聞く」という宿題が出た。
実は、この時の祖父への聞き取りについて、小学4年生のときよりも記憶がない。
真新しい情報がなかったからかもしれない。
そのときは、母方の祖父母にも電話して、話を聞いた。
母方の祖父は軍需工場で働き、終戦後は米軍基地で下働きしていた話、祖母は空襲下での話を聞いた。
それより記憶が残っているのは、クラスメートが報告した祖父母の戦争体験だった。
祖父母とはいえ、もちろん年齢に幅はあったため、
わたしの祖父より年上で、いわゆる「上官」と呼ばれる立場にあったおじいちゃんを持つクラスメートもいた。
南方で指揮を取る立場にあり、敵の大砲が直撃したが、まったく気づかず、そのまま指揮を取り続けた(そして生還した)エピソードを語ったクラスメート。
出征時に、兵士を盛大に送り出すための「祝○○○○君出征」みたいな文字が書かれている大きな旗(のぼり)が残っていて、それを持ってきたクラスメート。
すげー。うちのじいちゃん、負けた。
なんて、エピソードのすごさで勝手に優劣をつけていた自分がいたのを、妙に覚えている。
でも、その中で、わたしの祖父も海外には行っているので、それなりに誇らしく思っていた。
今思えば、激戦地や特攻隊や戦艦の方に行っていたとしたら、今のわたしがいない可能性が大きい…と思うと、そんなんで優劣つけるんじゃねーよ、と、あの時の自分に言ってやりたい。
と同時に、やはりこの「宿題」で収集されたクラスメートからの情報は、今となっては喉から手が出るほど、大変貴重だったと感じる。
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研究授業のためにK先生が題材にしたのは、戦艦大和。
校区内から、戦艦大和の元乗組員のおじいちゃんを探し出し、ただインタビューしただけではなく、研究授業本番にゲストとしてお呼びした。
その方が戦艦大和について語っていたことで、覚えていることをここに記しておく。
授業も終盤になり、そろそろ締めというとき、その方の目が潤んでいたのをかすかに覚えている。
「戦争は絶対にあっちゃいかん」というようなことを語っていたと思う。
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授業自体はK先生の狙い通り、熱気に満ち、一体感に溢れ、大成功を収めた。
これが、小学6年生、12歳の祖父の戦争の記憶。
と、K先生との思い出。
今日もお読みいただき、ありがとうございます。