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祖父の人生と戦争体験【ダイジェストver.】

私は岐阜県岐阜市に生まれ育ちました。
父、母、私、妹、祖父の5人家族。
父方の祖母は、父が高校生の時に病気で亡くなっています。

私が7歳のときに妹が生まれたので、それまでは一人っ子状態。
母が家事で忙しいときは、祖父が遊び相手になってくれていたのを記憶しています。

そんなじーちゃんから戦争の話を聞いたのは、
小学校で「祖父母の戦争体験を聞いてくる」という宿題が出たときと、
アメリカの戦争について研究していた大学生のとき。

そして、今回取得した兵籍簿の情報も加えて、

この記事ではじーちゃんの戦前・戦中・戦後を
ダイジェストで紹介します。

この記事は、祖父の生い立ちダイジェストverです。
この記事を基に、ひとつひとつのエピソードを別の記事に書いていこうと思います。
引き続き、マガジン「祖父の戦争とライフストーリー」「なぜ戦争体験を語り継ぐのか」を読んでいただけるとうれしいです。

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じーちゃんは、大正13年1月生まれ。

長男であるじーちゃん・巌(いわお)を筆頭に、
大正14年8月、次男であるじーちゃんの弟・尋司(ひろし)が、
そのあとに、4人の妹たち(和子、節子、幸子、好子)が生まれます。

体格は小さめでやせ型で、長男らしくない長男。
弟の方が体つきもしっかりしていたそうです。

地元の尋常小学校(今でいう小学校)を卒業し、14歳で丁稚奉公へ。

そのころ、母親が亡なります。

その3年後の9月、じーちゃんが17歳の時、
徴用工として広島・呉で働き始めることになります。
時は1941年。
日中戦争が泥沼化し、日米開戦が目前の頃でした。

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徴用工として従事してほぼ丸3年経った1944年9月3日、ついに徴兵されます。

所属は中部第13部隊。
徴兵検査の結果は乙種。

輜重兵(しちょうへい)として、軍事物資や食糧を運搬・供給するための後方支援の任務につきました。

入隊の10日後には下関を出帆。
釜山から陸路にて朝鮮半島を北上、満州国経由で中国入り。
湖北省当陽という地で教育訓練に参加します。(11月2日~翌年2月12日)

教育訓練後、祖父の話だと「馬を調達に行く任務に就いた」とか。

河南省信陽で終戦。
終戦と同時に脚気と診断され、漢口の病院で入院します。(8月28日~翌年2月28日)

昭和21年5月2日、上海を出帆。
佐世保上陸にて兵役を解かれました。

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じーちゃんが帰郷した岐阜の街は、空襲を受けていました。
昭和20年7月9日夜、B29の爆撃により、岐阜駅とそこから長良川まで延びる目抜き通りやその周辺の市街地・住宅地を中心に焼き野原になり、約810名の死者を出しました。

当時の実家は岐阜駅まで徒歩圏内という立地。
空襲下、父親と妹たちは無事だったながらも、バラック小屋での暮らしになっていました。

命かながら生還し、帰宅できたのもつかの間、
じーちゃんを迎えたのは、父親の痛烈な言葉。

「お前が帰ってきたんか。」

父親が強く帰宅を期待していたのは、次男。
じーちゃんの弟・尋司の方でした。

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じーちゃんの弟・尋司は、じーちゃんが入隊した約1か月後、
徴兵にて歩兵部隊に入隊。
じーちゃんと同じく中国に派遣されていました。

終戦になっても、待てど暮らせど帰ってこない弟。
昭和21年11月1日付けで届いたのは、弟・尋司の死亡告知書でした。

昭和20年5月20日、広東省来陽の病院で戦争栄養失調症にて死亡。
19歳という若さでした。

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その後、じーちゃんは鉄道会社に就職。
結婚し、二男一女をもうけました。
その次男が、わたしの父親です。

2012年に祖父は88歳でなくなりました。

まさか自分が死んだ後に、孫がこのような形で自分の人生を他人に語ったり、記事にしたりするなんて思ってもみなかったでしょう。

「戦争体験」と聞くと、
広島長崎、特攻隊、戦艦大和など…
知名度の高い(それほど凄惨だったということですが)出来事、戦地でのストーリーが頻繁に語られますが、
じーちゃんのようなごくごく一般的な庶民にも、壮絶な戦争体験があります。

100人いれば、
100通りのライフストーリーと戦争体験がある

それをこれらの記事で知って、考えるきっかけにしてもらえたらうれしいです。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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