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「戦争の記憶」が消えた空白の期間。


兵籍簿が届いたと、母親から連絡があった翌日。

先行して兵籍簿を見ている母と、母から送られてきた一部分の写真でしか見ていないわたしで、電話越しにあれやこれやと話が始まった。

わたしや母が、生前の祖父から聞いていなかったことや、聞いていたことと相違していた部分も、兵籍簿から読み取れた。
それぞれ、約1年半~2年間の従軍歴だが、新しい発見がいっぱい詰まっていた。

「今回、とあるイベントで「軍歴証明書」という存在をたまたま知って申請したけど、そうでもしなければ、じーちゃんの記録もその弟も記録も、役所の書庫で眠ったままだった。
って思うと、一度も開示されないまま書庫に埋もれ続けている人の記録もあるばず。というか、そちらの方が多数かも。それは、もったいない!!!」

そして、わたしが常々思っていた
「戦争体験者がもっと若いうちに語っていたら、今の世代がこんなに焦ることはなかったんじゃないか…?」
という、シンプルな疑問。

身内の戦争体験を、子ども世代ではなく、孫世代の方が良く知っている、という現象が、謎だった。

わたしが子どもの頃に、祖父母に戦争体験を聞いたように、
父母が子どものころは自分たちの父母に、戦争体験を聞いたりしなかったのか。
その時に聞いていれば、もっとたくさんの記憶が、鮮明なまま集まったのではないか。

私「お母さんが小学生の時にも、小学校で歴史習うやん。「お父さんやお母さんに、戦争の話を聞いてくること」ってゆう宿題なかったの?平和学習とかなかったの?」

母「う~ん、なかったねぇ。
昭和40年代でしょぉ。戦争終わってまだ20年くらいしか経っとらへんでねぇ。」
母「そんな時代じゃなかったのかも。
高度経済成長期で、そんなこと考えとる暇なんてなかったんやない?」

あとから、国語の教材に戦争期を題材にした児童文学が採用されたのがいつごろからなのか、気になった。

Google先生に聞いたら、ご丁寧にも、それが調べてある記事が見つかった。

小学3年生の国語の教科書に掲載されている「ちいちゃんのかげおくり」。
私も習った記憶がある。

この作品が教科書に載ったのは、昭和61年からであるそう。

わたしが昭和62年生まれなので、当然わたしの母親は学校で習っていない。

こんなにも最近なのか…。ちょっと意外だった。

もうひとつの考察。

やなせたかし「ぼくは戦争は大きらい」の「はじめに」には、こう書かれている。

今頃になって、なぜ戦争中のことを話す気になったのか、というと、ひとつにはぼく自身が90歳を超えて、同世代にはもう戦争体験を語れる人がほとんどいなくなったことがあります。
戦争を語る人がいなくなることで、日本が戦争をしたという記憶が、だんだん忘れ去られようとしています。人間は過去を忘れてしまうと同じ失敗を繰り返す生き物です。
ぼくは、もうお墓も戒名も決めて、いつ死んでもいい状態だからいいのですが、日本が戦争になったら若い人たちがかわいそうです。

自分が語らないことによって、戦争の記憶が薄れて、同じ過ちを繰り返すことを危惧したやなせ先生。

自分が死ぬ前に、これは語り残しておきたい。
もしかしたら、同じように考える人は多いのかもしれない。

そのタイミングが、戦争体験者がいわゆる「おじいちゃん、おばあちゃん」になった時。
そして、わたしがその孫世代のど真ん中だったのだ。

おじいちゃん、おばあちゃんたちにとっても、息子娘に語るより、孫に語る方がワンクッション入っているような感覚で、語りやすかったのかもしれない。

そんなようなことを、母と話した。

あくまでも素人同士の推測だが、確かにと思える。

記憶が鮮明なうちに語っておかなかった、当事者たちの責任。
記憶が鮮明なうちに聞き取っておかなかった、わたしの親世代の責任。
そんなものは、一切なかった。

身内の戦争体験を、子ども世代ではなく、孫世代の方が良く知っている、という謎の現象。
それは、必然だった。

だからこそ、堂々と言いたい。

今こそ、戦争体験を語りごうよ、と。


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