2.栃木実父殺し事件

第二回です。
今回は栃木実父殺し事件。
いや〜この事件は本当に酷いです。しかも酷いのは加害者ではなく被害者の方。殺人という点では加害者が酷いのは勿論なんだが、被害者はそれを上回る酷さで、裁判官もコレは殺されてもしゃーないやろ…と思った事によって色々ミラクルが起こった事件です。

では事件概要。ちょっと長いですが…これはもうちょっとした小説ですね。

【概要】
1968年(昭和43年)10月5日午後10時ごろ、栃木県矢板市の市営住宅で異様な事件が発生した。

「いま、父親を紐で絞め殺したんです」

相沢チヨ(当時29歳)が、日頃から親しくしている雑貨商を訪れて、そう言うと、その場に崩れ落ちた。驚いた雑貨商はすぐに所轄署に通報。チヨはその場で尊属殺人の容疑で緊急逮捕された。殺されたのは、チヨの実の父親で、植木職人の相沢文雄(仮名/52歳)だった。

取り調べで、長年に渡る父親と娘の性関係が明らかになり、世間を驚愕させた。しかも子どもも3人いるという、常識では考えられない事実が浮かび上がってきた。

1953年(昭和28年)のある真夜中、チヨが中学2年の14歳のときのことだった。この頃、相沢家では家族9人が狭い2部屋で寝起きしており、両親が茶の間に寝て、長女のチヨを頭に、妹2人、弟4人の7人の子どもたちが、奥の間に折り重なるようにして寝ていたが、父親の文雄が密かにチヨの寝床に入ってきて、いきなり体を求めた。チヨは驚いて声を出そうとしたが、家族を起こしてしまうと思い、唇を噛んで父親を受け入れてしまった。

一度、性関係ができると、文雄は妻の香代(仮名)の目を盗んでは、チヨの体を求めた。1週間に一度くらいの割合で、夜中になると寝床に入って体をまさぐった。多いときは3日に1回、2日連続ということもあった。チヨは朝、父親の顔を見るのが嫌になり、我慢ができなくなって、関係ができてから約1年後に、母親の香代に訴えた。香代は驚き、子どもたちのいないところで、文雄を問い詰めた。

「実の娘にそんなことをするなんて、あんたはケダモノだよ!」

文雄は狂ったような目つきで包丁を香代に突きつけた。

「ガタガタぬかすと、殺すぞ・・・・・・」

夫は人間が変わったと、香代は思った。香代はチヨと次女で中学2年の良江(仮名)の2人を夫のもとに置き去りにして、他の子供たち5人を連れて、北海道へ逃げてしまった。父親の文雄とチヨと良江の3人で暮らすことになり、チヨは主婦の役割を果たすようになる。やがて、良江が中学を卒業して、東京都荒川区の工場に就職した。それ以降、文雄とチヨは夫婦同然の生活をするようになった。

「父とのセックスで、快感がなかったと言えば、ウソになります」と、チヨはのちに供述している。

1956年(昭和31年)春、チヨが17歳のとき、母親の香代と子どもたちが北海道から戻ってきて、実家の敷地に新しく小さな家を建て、再び家族全員で暮らすようになった。母親の香代は父親の文雄の行動を厳しく監視した。文雄は酒に酔ってはチヨの寝床に入って体を求めたが、その度に香代が止めに入って喧嘩になった。そんなゴタゴタを繰り返しているうちに、チヨは妊娠してしまう。17歳のチヨはどうすればいいのか判断がつかず、ただ父親から逃れたい一心で、田植えの手伝いにきていた男(当時28歳)と黒磯市へ駆け落ちした。

だが、それほど遠い所でもなかったこともあって、居場所が文雄にばれてしまった。

「貴様、勝手なことをするんじゃねえ!」

一緒に駆け落ちした男は文雄に一喝されただけでチヨを手放してしまった。チヨを連れ戻した文雄は、県営住宅を借り、チヨと2人きりで暮らすようになった。古びた平屋建て、3軒長屋の1軒である。チヨはここで長女を出産した。子を産んでから、いっそう、父親から逃れられないと諦めが深くなった。文雄は酒を飲むと狂暴になり、色魔に変身し、精力が尽きることがなかった。

チヨはのちに次のように供述している。

「父は私を全裸にするばかりか、エロ写真のような恥ずかしい体位や、ありとあらゆる方法で性行為を要求し、それも毎晩1回だけでは済まないのです」

この長屋で父親と娘は、事件が起きるまで12年間、一緒に暮らすのである。この間に、チヨは5人の子どもを産み、2人は生後まもなく死亡、長女と次女、三女だけが育った。この他に5回、妊娠中絶をし、6回目のとき、医師に体をこわすと忠告され、不妊手術を受けるように勧められている。これには文雄も賛成した。

1967年(昭和42年)8月、チヨは不妊手術を受けた。

3人の子どもたちは幼稚園から小学校へと進むようになるが、奇妙なのは3人の子どもの戸籍で、民法上、文雄の重婚は認められないし、仮に文雄が香代と離婚したとしても、実の父と娘の婚姻は認められない。だから、子どもの籍はすべて「私生児」扱いになる。父親の欄に文雄と記されているのは、父親が子として認知したことを示している。

1968年(昭和43年)春、29歳になったチヨは印刷会社に就職し、ここで初めて恋をした。相手は7歳も年下の工員の山岸昭男(仮名/当時22歳)だった。

チヨはのちに次のように供述している。

「勤めに出て、普通の女の生活は、こんなに明るく楽しいものか、と思いました。職場の女性が、恋愛だとか、デートだとか、青春だとか、幸せそうに話し合っているのです。でも、そういう職場からいったん家に帰れば、恐ろしい父と、子が待っているのです」

山岸はチヨに子どもがいることを知りながら結婚を申し込んだ。その夜、チヨは父親の文雄に結婚の相談をした。相手が22歳の男であること、子どもたちを母親の香代に預けたいこと、などを伝えると、文雄はカッとなって、焼酎をあおって怒鳴った。

「そんなことをしたら、俺の立場はどうなるんだよ。俺をコケにするつもりか。そいつをぶっ殺してやる!」

チヨは恐ろしくなって、「印刷会社を辞めて、毎日、家にいるから」と言って懸命になだめて、やっと収まった。

チヨは家出を決意し、山岸に電話で、駅に行くからきて、と連絡を取り、衣類を持ち出して親しい近所の家で着替えをした。そこへ父親の文雄がチヨを捜しにやってきた。怒った文雄は衣服から下着まで裂いてしまった。チヨは半裸の状態で泣き叫びながら外へ飛び出し、駅へ向かうバスを追ったが、すでに発車したあとだった。

家に連れ戻されたチヨは、それ以来、一歩も外へ出られなくなった。その後、チヨは山岸の自宅や印刷会社へ電話したが、いつも「いないよ」と呼び出しを断られた。

父親の文雄は仕事もせず朝から焼酎をあおり、チヨを監視するようになった。山岸への嫉妬もあって、52歳になる父親がチヨを求める回数が急激に増えていった。

チヨはのちに次のように供述している。

「一晩に3回、少ないときでも2回、セックスしました。不妊手術以来、私は不感症になってしまい、本当に苦痛でした」

事件当日の10月5日の夜も、父親は酒に酔ってチヨと交わってから布団の中で罵声を浴びせた。

「お前が出ていくのなら、3人の子どもは始末してやる!」

チヨはもうだめだと思った。この父親がいる限り、自由もなにもないと思った。チヨは起き上がると、部屋にあった父親の作業用の紐を持ち出し、父親の首に巻きつけて力まかせに絞めた。文雄はそのまま息絶えた。

出典:http://www.maroon.dti.ne.jp/knight999/totigi.htm

この事件で争われたのは何と言っても尊属殺重罰規定。現在の刑法典では既に削除されている条文ですね。

自己又ハ配偶者ノ直系尊属ヲ殺シタル者ハ死刑又ハ無期懲役ニ処ス(平成7年法律第91号による改正前)

つまり自分や妻の親とかじいちゃんばあちゃんを殺したら問答無用で死刑か無期懲役で、もうシャバには出られないという規定ですな。

これは滅茶滅茶重いです。

だってこの事件みたいに加害者の特別な事情によって倫理的にも実刑の判決がそぐわない場合でも、この条文のせいで重い刑罰を課さなきゃいけなくなってしまう。

刑法には色々減刑の規定もあって、刑期3年以下なら執行猶予がつけられるんすわ。でもこの条文のせいでいくら減刑しても三年半止まり。
つまり執行猶予は嫌でもつく。

それは酷いって事で最高裁は、条文自体が憲法違反だから無効って判決。
ミラクルですね。すごい。

ちょっとややこしいけど、尊属殺重罰規定の程度が酷いって事です。

最高裁大法廷の判決の多数意見は、尊属殺人罪に関する規定を普通殺人罪と別途に設けること自体は違憲とせず、執行猶予が付けられないほどの重い刑罰しか規定しないことを違憲とするものであった。

まぁ色々考えさせられますね…

ちょっと刑法の判例が続いたので、次回は民法あたりから紹介しようと思います。
ではでは。

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