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#000「OFF THE LOCK」

 B'zに夢中だった高校生の私は、あるブログに心酔していた。みたこともない方法で私の一番好きなアーティストのことばを解剖していくその文章は、「歌詞の読解には正解がある」という危ういテーゼを私に刷り込んだ。ニーチェを援用しなければ、稲葉さんの言葉をわかることができないとか、そういうよくある誤解をしてしまったのが当時の私だった。

 「数多ある解釈のひとつにすぎない」ことを強調していたそのブログの管理人からすれば、それは望んでもいない結果だったはずだが、そんな誤解を生んでしまうことすら聡明な彼にとっては想定内だったろう。だからこそ「B'z 一日一曲」はある日インターネットの海から忽然と姿を消したのだ、と勝手に納得している。

 あれだけ丁寧な考察をしてしまう人のことだ。不完全ななにかを世界にむけて公開したままにするということは、彼にとって我慢ならなかったのではないかと想像する。内省的な稲葉さんの歌詞を哲学的な論理系として整理しようとする神経質なまでのストイックさはまさに稲葉さんに気質に通ずるものであり、真似しようと思ってできるものではない。最後まで聖人のような書き手だった。ブログを通してしか知らない彼に対する畏敬のような念がいまもまだ残っている。

 そんな聖人には似ても似つかぬ俗物である私も、間違いなく稲葉さんの言葉に魅せられてきたうちの一人だ。物事を分析しがちな私だが、稲葉さんの歌を聴きライブパフォーマンスを観るときだけは何も考えずにいられた。行き場のないこの心をつかんで離さない言葉選びと思想。そして、歌声。「推し」なんて語彙は当時まだなかったと思うが、何も考えずただ感じるだけの対象のことをそう呼ぶというのなら、稲葉さんは私の推しかもしれない。

 だが呼び名などどうでもいい。どう読んでよいか分からない感情が稲葉さんに対してはずっとある。つじつまのあわないズルい男を責めつづける稲葉さんの歌詞のせいで余計なことを考えすぎてこじらせた黒い青春を送るハメになってしまった。その原因となるアーティストが日本一売れているメジャーなバンドであるという事実も、こじらせているがゆえに恥ずかしく思えて、嫌いになる努力もした。でも嫌いになるどころか気がついたら何度でも再生してしまう自分がいた。強い意志のようなものがあれば決断をいつまでも先延ばしにしていいと言われている気がした。そしていまでも、わたしはB'zに対する態度を決められずにいる。

 そんなモラトリアム人間もとうとう26歳になり、いまはこの恥ずかしいペンネームで文章を書いたり本を売ったりしている。働き、遊び、この先の人生の結末について気を取られるほどに、自分の足で立つことの難しさを考えるようになった。そうするうちに、いつまでも自分に保険をかけたり誰かの影を追ってばかりいてはいけない気がした。

 だからこうして、私は私の幼い青春を鎮めてみることにした。B’zと稲葉浩志のソロワークにおける稲葉さんの歌について。イキリ陰キャの人格形成をあまりにも手伝いすぎた悲観と楽観を軽やかに行き来するその言葉について。思うがままに何か書いてみようと思う。あのブログとはまた違ったものになるだろう。俗物には俗物にしかない取り柄があるという、そのわずかな可能性を信じてみることは罪ではないし、自分の足で立つために必要なことではないだろうか?

 否、そんな煩わしい思弁は無用。要するに私は、あれから長い年月を経て私がどう変わったのかを確かめたいのだ。何が失われ、何が残ったのかを確かめたいのだ。正直に白状するならそんなことすらただの建前で、本当は好きなものについてただ一心不乱になにかを書くという行為自体を楽しみたいだけかもしれない。いずれにせよ、私は私のやり方で、稲葉浩志という、私の心に居座りつづける巨大な表現者について、思うがままに書き記してみたい。

 どこに向かうかは分からない。だからこそ、結末ばかりに気を取られずに、気ままな思索を楽しもうと思う。稲葉さんが教えてくれたのはそういう心の持ち方であり、かつての私もずっとそうしてきたのだ。楽しくもない決め事からいま解き放たれ、もうすぐいくよ… 君の中へ…

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