倫理と論理

あまり良くないとされる話をします。


自殺がいけない事である、ということは重々承知している。
親に「死にたい」などと言えば強く止められる。友達に相談すれば明るいことに話題を強制的にすり替えられる。
当然だろう。身近な人の存在が消えてしまうのだから。自分だって明るい話題にすり替えるような友達だった。しかし今はそれが間違いのように思える。

哲学的ゾンビ、という単語がある。中身である自我の「田中太郎」は消えるが、他の人から見たらいつもと変わらない、おちゃらけ者の「田中太郎」にしか見えない。そんな状態を指すらしい。
人が他人の希死念慮を拒絶する一つの理由に「身近なものの存在が消えるのが嫌だから」があると思う。

ならば、存在自体が消えない哲学的ゾンビならばどうだろう。

存在は消えないし、普通の人間にしか見えない。旅行の思い出話だってできるし、部活中にやらかした先輩の笑い話だってできる。誰にもその人が哲学的ゾンビだという証明はできない。

こういう話をすると、大体は「そんなの嫌だ」と言う。

まあそら言うわな。ここで肯定しちゃったらダメな気がするもんな。でもそんな事言ったって、NPCであることに気が付かなければPCであると認識し続けることもあるじゃないか。NPCだと永遠に気付けないのが哲学的ゾンビなんだから、実際になったとしても貴方が嫌と思うことはない。

倫理、というものはどうにも難しい。自殺をしてはならない、自我を無くして存在はあり続けたまま…という実質的な自殺をしてもいけない。
倫理を考えずに論理だけで物を言ってしまう時が自分にはしばしばある。
上の哲学的ゾンビが云々もそれにあたる。大抵雨やメンタルの不調で良くないことを考えてしまう時が多い。

正直なところ、一番最初に書いた『自殺がいけない事である』にも、承知しているというだけであって本当は納得がいっていない。苦痛が伴うのだから、推奨をするべきではないということは分かるのだが、強制的に止める行為に対しては少し疑問がある。生存権、というのが憲法では定められてはいるが、権利であって義務ではないのでは?というのが自分の考えだ。権利を行使するのは自由だが、それならば権利を行使しないのも自由であってほしい。
同じ『いけない事』でも「強盗はいけない事」「殺人はいけない事」はわかる。人に危害が加わってしまうのは良くない事である。しかし自殺はいけない事なのか。人口が減ってしまうことがそれほどまでに良くないことなのか。

そんなことを考えてしまうほどに、私は今、低気圧と月経に振り回されている。たすけて〜〜〜〜


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