心の深海

村上春樹さんの言葉を久しぶりに読んだ。

「村上春樹」と久しぶりにニュースを検索したら記事が出てきた。今春の早稲田大の入学式でスピーチをしたのだという。中身はいつもの話だった。けれどもそのいつもの話が懐かしく、いつも通りはっとさせられた。はっとさせられるというより、もっとじんわりしたものなのだけれど。

「僕らは普段、これが自分の心だと思っているのは、僕らの心全体のうちのほんの一部分にすぎないからです。つまり、僕らの意識は、心という池からくみ上げられた、バケツ一杯の水みたいなものにすぎない。残りの領域は手つかずで、未知の領域として残されています。」

いつもの地下の話だ。でも確かに、やっぱりこれは大切だよなぁと思った。

無意識の部分、地下何階かの部分、心の深海のような場所。そういうところからよく分からないものを分からないままに取り出して文章にする。それが物語というものだ。自分にとっても。村上春樹の魅力はまさにそこにあり、自分がこうして拙い文章を書く理由もそこにある。

効用というほどのものは、はっきりとは分からない。

しかし、自分にとってそれが必要だということはわかる。

たぶん私は他のどんな形式の文章ともまた別に、そうやってよく分からないところから直接、物語という文章の形で何かを取り出すことを必要としているのだと思う。それが何ヶ月に一回、あるいは何年に一回になるとしても。

たぶんそれを私は必要としているのだと思う。メンテナンスのようなものなのかもしれない。それほどシステマチックなものではないにしろ。

それは物語の形にさえならないのかもしれないけれど、間違いなくエッセイとは違うだろうという気がする。何かの意見やメッセージを表明したいわけではもちろん全くない。

だから私はとりあえずそれを物語と呼ぼうと思う。

それほど大したものでもないのに物語と呼ぶのは、そう呼ぶほうがより心の深淵に降りていけそうな気がするからだ。

降りたからといって何になるものでもないだろうけれど。たぶん、私はその作業を必要としているのだ。理由はわからないけれど。

たぶん単純に、そうやって心の何かをだすことが好きなのだろう。そしてそれはおそらくすごく遠回りな形で私の心の健康に役立っているのだと思う。

だから他人のためではなく(もとより誰のためになるわけもない)、ただ自分のためだけにまた文章を、小さな物語のようなものを書いてみようと思う。

あるいは何も書かないかもしれないけれど。

そう思ってキーボードを叩いた。

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