深く潜って書き納め(2021年12月28日)

ご無沙汰しております。みづきです。

12月は色々なことがあり、苦しい師走を送っていました。
でも、今年を「苦しい」で締めくくりたくなかった。等身大の葛藤と希望を、純度の高いまま書き残しておきたかった。ゆるやかに監視されているここで、自分の在り方をもう一度記しておきたかった。

だから遊覧潜水での書き納めとして、日記を書かせていただくことにしました。

【業務報告】

苦しみながらも無事、仕事納めに成功しました。新卒会社員として働く中で、大切な気づきがたくさんありました。遊覧潜水のお仕事にも繋げたいなと思ったことや、自己内省して改めて感じたことを、いくつか共有します。

クリティカルシンキングとは戦友だ

横文字にすると急に硬くなるけれど、思考の深度を変えるという意味で、潜考のひとつだと思います。

前提を疑ってかかること。ひねくれた神様の視点で物事を見ること。悩んだ時、行き詰まった時、そもそもから立ち返って考えること。

「ビジネスパーソンとして、ロジカルにクリティカルにシンキングしようぜ」ということはずっと言われています。でも私にとってそれは、意識せずとも自然と行ってしまう、思考の習慣だと自覚しました。

受験期、志望大学の特殊な試験対策として、恩師の先生とずっと訓練していました。人文学生だった4年間も、講義や生活を通じてずっと教え込まれてきました。さらに、物事を深く考える(時々行き過ぎちゃうけど)性格ゆえに、無意識のうちにずっと行ってきたことでもあります。

目に見える資格試験と違って、身についている思考方法が評価されることは、そう多くありません。使いようによっては、自分を追い込むものにもなってしまう。でも同時に、その強みを生かすことができれば、誰かの役に立てるということがわかって嬉しかったんです。

問題を提起する時。解決方向を考える時。悩み、苦しみの渦中にいる時。それを俯瞰的な視点で見て、考えられる自分に、もっと自信を持てるようになりたいです。


ラテラルシンキングもめっちゃしてた

これも、潜考の一形態のような気がします。

ひとつの問題に対して、今までの経験や、見たもの聞いたものから考えること。それは私が日常的に行っていることだと気づきました。

私はすぐに、色んなところから情報を拾います。街の看板やサイトのデザイン、広告や本の帯、聴いた言葉、あらゆるところから色んなものを吸収します。見たもの聴いたものに影響されやすく、音や匂いを感じやすい。それゆえ頭がいっぱいいっぱいになって疲弊することもあるけれど、取り入れた情報をうまく外に逃がす≒アウトプットすることができれば、それも良い方向に繋がるのだと実感しました。

たくさんインプットして、たくさんアウトプットしていたい。カタカナにするとあっぷあっぷ溺れているみたいだけど、溺れないようにバランスを取りながら、見て、聴いて、感じて、生み出していきたいです。

自由にアイデアを出せる場所が好きだあ

私は、アイデアを自由に出していいんだと思える場所でなら、無限にアイデアを出せることに気づきました。自分で出すの好きだし、聞くのも好きです。ブレインストーミングとかやってみたい。

でも、発言することに対して怯えが生じると、何も言えなくなってしまいます。変なことを言っていないか不安になると、周りと違うことをしないようにしよう、と思考を押しこめてしまいます。
でも、自由に深く幅広く、時に突拍子もないことを考えることが好きです。ほろっと思いついたアイデアが形になる瞬間も大好きです。

私がいきいきできるのは、自分の考えやアイデアを自由に出していい場所なのだと思います。

奇数のりんごを平等に複数人に分けるにはどうすればいいかという問題を示された時、私は、切り方の問題だと思いつつも、真っ先に思いついた「ジャムにして分ける」方法を提示しました。
「そう、それくらい自由でいいんだよ」と言われた時、ああ、ここでは自由に考えていいんだ、話していいんだと安心したんです。

もちろん形式の中で考えるのも大事だけれど、そもそもの形式を作るためには、自由な空白が必要な気がします。
話していいんだよ、とゆるされる場所にいたいし、そういう場をつくれるひとで在りたいです。

【理想と現状と問題】

「問題」についての定義は様々ですが、私は、現状と理想との狭間に生まれるものだと思っています。

だとしたら、今問題が沢山あってくるしいのは、理想としている姿があり、現状に満足できず、そのギャップに葛藤しているからなのかもしれません。

ひとが怖くなるとか、言われた言葉に傷ついてしまうとか、世の中に絶望してしまうとか、そういうことも全部、ひとが好きで、言葉が好きで、世界が好きだから抱く感情なのだと思います。

苦しいつらいこわい、をクリティカルに考えて、色んなひとの言葉に触れた末に、そう思うようになりました。

私には、やりたいこともできるようになりたいこともたくさんあります。2022年はもっと本格的に遊覧潜水のお仕事をお手伝いしたいし、少しずつ軸を文筆業に移していきたい。生活拠点も、長野に移したい。そして、色んな思いをかたちにしていきたい。

そのためにたくさん文章を書いていきたいし、話を聴いていたいし、デザインの勉強もしたい。

頑張る軸が定まると強いことは自覚しています。だからこそ揺らぐと弱るのだけど、揺らぎながらも、時に不安になりながらも、今ここで思い描いている在りたい姿は、見失わないでいたいです。

思いの言語化は、きっと得意だ

これも、思考方法同様、染み付いた習慣です。得意と思うし、そうしないと生きていけないタイプなのだとも思います。

道をふらふら歩いていると、自然に頭の中で文章を組み立ててしまう癖があります。立ち止まってスマホのメモ帳に書き残すこともよくあります。思いは純度の高いうちに、言葉にして残したくなります。

それが、仕事にもちゃんと活かせるのだと感じる出来事がありました。
あるディスカッション中、リーダー兼プレゼンター的な役割を担いました。その時、散らばったキーワードを集めて言語化し、まとめ、発表することが自然とできる自分に気づきました。それが、とても嬉しかったんです。
潜在的に意識しているんだろうけれど、自然とできると感じるくらい、思いの言語化は習慣になっているんだなって。

思いはかたちないもので、完全には伝わらないものです。でもだからこそ尊くて、伝え合う時間を大切にしたいと思う。そのために言葉というツールが必要なのだと思います。それがたとえ愚かしい行為だと定義されても、私は、美しい行為だと思っています。

思いは伝えようとしていたい。
そして私も聴いていたい。
己の欲すること、ひとに施す精神でいたいです。ひとはみんなエゴイストなのだとしたら、私は自分のために、誰かのために伝えようとしたいです。

葛藤と傷、階段の途中

私はずっと、相手のことを考えてひとと接してきました。そのひとが何を考えているか、私には何ができるのか。気づいたら無意識的に、そうやってひとと付き合っていました。そんな自分の在り方が、根本から揺らぐことがありました。その途端、私がしてきたことは何だったのかと、こわくて仕方なくなってしまった。

でもその在り方で生きてきたからこそ、出会えたひとがたくさんいます。出会ってくれたひとたちのことを、私はとても大切に思っています。
相手のことを考えてしか人と付き合えない、と悲観的になってしまっているけれど、きっと、悲観的になることではなくて。悩んだり傷ついたりしながら少しずつ確立してきた在り方を、私は否定したくないのだと思います。

相手が何を考えているのか完全にはわからないし、発信すればするほど、思いも言葉も行動も、誤解されることも誤解してしまうこともある。

まだ完全には葛藤を乗り越えられてはいないけれど、私はやっぱり、誰かのことを思う時間が好きです。自分の在り方は間違いじゃなかったと、これから在ろうとしている姿も間違いじゃないと、思えるようになりたいです。今は苦しいし打ちのめされそうになるけれど、足をかけた階段がたまたま崩れても、そこは地獄ではなく、人生の新しいおどりばなのかもしれない。もう少しここで踊ったら、また階段に足をかけられる気がします。

自分を責めすぎないこと

ひとは良いことがあると原因を内的に求め、悪いことがあると外的に求める傾向がある、と聞きました。
その話を聞いて、ああ私めちゃくちゃ逆だ、と思いました。
私は良いことがあっても、それを自分によるものだと思うことが苦手です。運がよかった、周りに恵まれた、と思います。
問題は、そこで留まればいいのに、つい行き過ぎてしまうことです。周りに支えられているのは間違いないことです。でも、自分自身の頑張りを認めてあげてもいいのかな、と思います。それが、支えようとしてくれるひとたちへの誠意にも繫がる気がしています。

逆に、悪いことがあった時、私は周りに原因を求めることができず、何でもかんでも自責します。外的な原因だってあるのに、マイナスな感情を誰かに向ける自分をゆるせなくなります。
あなたは怒らないよね、とよく言われます。でも私だって神様じゃないから、かなしいと感じたり、ゆるせないと感じることだってあります。

そういう感情を、ただ自分に向けて傷つけることで処理するのではなく、ただしい方法で処理できるようになりたいと思いました。アサーション、という言葉がそれに当たるかもしれません。

否定しない、を言動の軸のひとつにしているけれど、それと「否定できない」は少し違う気がするんです。言いたいことが言えない、ひとりで耐えなきゃ、誰のことも責めちゃだめだ、愚痴も弱音も吐いちゃだめだって、ひとりで全部抱えて苦しむことは、マイナスな感情のただしい処理方法ではないような気がしています。

まず、自分の感情は疑わないこと。ひとの数だけ真実はあるけれど、自分がつらいならつらいのだと、信じてあげること。

追い込みすぎは身体に毒なので、自分を認めてあげられるようになりたいです。

【年末のご挨拶】

今年は本当に色んなことがありました。
つらいこともたくさんあったけれど、救われたこともたくさんありました。つらさの渦中だから見えた景色もたくさんあって、社会人になったにもかかわらず、去年よりもたくさん文章を書いた気がします。

自分が経験してつらかったことをつらかったで終わらせるのではなく、つらい時こんな救いがほしかった、を形にできるひとで在りたいです。そして、自分も誰かを救えるひとで在りたい。救う、と救われる、には前後なんてないのかもしれません。

今年はたいへん、お世話になりました。
ゆるやかな相互監視により、私は苦しみや迷いの渦中にいても、雲間から注ぐ光を見逃さずに済んだ気がしています。

ここで共に考えたり綴ったりかたちにしたりしたことが、少しずつ、在りたい姿や救いに繋がっているような気がします。

波多腰さん、ありがとう。波多腰さんが繋いでくださった縁にも、ありがとう。いつも支えてくれるひとたちみんなに、ほんとにほんとにありがとうの一年でした。

どうか良いお年をお迎えください。
そして来年も、よろしくお願いします。





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