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ゼロから学ぶ総理大臣2〜羽田孜〜

皆さんこにゃにゃちわ〜、もののふです!
ここ最近急に暑くなることもあって半袖をタンスからコンニチワさせました。
そういえば昔、半袖が似合う総理大臣が2人いましたね。
1人はアーウー宰相の大平正芳(おおひらまさよし)。
彼は省エネルックを流行らせようと、半袖のスーツを着ました。
しかしこれは受けが悪く、ある会社では5着しか売れなかったそうで…。

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ウキウキ半袖の大平正芳と、音頭取りの江崎真澄(出典https://style.nikkei.com/article/DGXMZO31878070X10C18A6000000/)

しかし最初大平に合わせて省エネルックをしていた議員たちも、大平の死後には普通のスーツに立ち戻ってしまいました。
しかし律儀にも続けていた男がいたのです。
そう、それが今回取り上げる羽田孜(はたつとむ)です。

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こちらもウキウキ半袖な羽田孜(出典https://style.nikkei.com/article/DGXMZO31878070X10C18A6000000/)
では羽田孜はどのような人だったのか、探っていきましょう。

サラリーマン孜〜竹下派七奉行へ〜

羽田孜は1935年8月24日生まれ。
誕生日は「ワイルドだろ〜」で有名になったお笑い芸人のスギちゃんと同じである。
羽田は見た目も温和な感じだが、実は幼少期はかなりワルイドだった。
生まれは東京なのだが、疎開のため父の地元の長野へ。
やはり疎開した子たちは「東京っこ」と呼ばれ、イジメられるが羽田は違った。
何クソと喰ってかかり、相手が何人いようとつかみかかって結局は地元の子達と打ち解けていった。
その後はイカダを作って千曲川を下ったり、畑のナスを盗んだり天真爛漫にしても元気が良すぎたものだった。(良い子はマネしないでね!)
しかし筋を通せないものは許せないらしく、やはり喧嘩は日常茶飯事だったようだ。
ある時の事である。
学校の先生から呼び出されこう言われた。
「羽田、お前は喧嘩っ早い。いいか、もし相手を殴りたいと思ったら次の日まで待て。だが次の日になったら絶対殴れ!いいな!」
羽田はキョトンとして聞いていた。
しかし実際にその時我慢して次の日に殴ろうとしたら、殴る気が起きなかったのである。
羽田はそれ以降怒ることがめっぽう無くなり、温和な羽田孜になったという。
そんな羽田はみんなの人気者、人と人とのつなぎ、世話役をよく行ったため伝書鳩というあだ名がついた。

そして羽田は成城大学に入学したが、なんと就職に失敗してしまったのだ!
原因は人の就職の世話をしすぎて自身の就職をおろそかにしたからだった、伝書鳩のやりすぎである。
結局父親で衆議院議員の羽田武嗣郎(はたぶしろう)のコネで小田急バスに就職。
コネで入った羽田はこのまま堕落するかと思いきや、本領を発揮する。
羽田は入った観光課に着任、その後文学ツアーや史学ツアー、皇族ツアーなど様々なバス旅行を提案、大成功した。
彼が失敗したツアーは松茸狩りツアーだけらしい。(今ならヒットしそうだが…)
時には自身がバスを運転するほど勤め上げた羽田はいつのまにか33歳になっていた。
ここですごいのがサラリーマン経験した総理は何人かいれども10年以上勤めたのは中々いない。(ちなみに参考までに現総理の安倍ちゃんの社会人経験は3年なのでかなり長い)

しかしそんなただのサラリーマン羽田孜に転機が訪れる。
父の羽田武嗣郎が脳出血で倒れていたのだが、その後継者になってくれと後援会の熱い懇願により選挙に出ることになったのだ。
その後羽田はトップ当選し、自民党内で頭角を現すことになる。
そして羽田はとうとう竹下派七奉行に数えられるほどの実力者になったのだ。
竹下派七奉行とは

小渕恵三(おぶちけいぞう) 総理
橋本龍太郎(はしもとりゅうたろう) 総理
羽田孜(はたつとむ) 総理
小沢一郎(おざわいちろう) 自民党幹事長
渡部恒三(わたなべこうぞう) 衆院副議長
梶山静六(かじやませいろく) 官房長官
奥田敬和(おくだけいわ) 運輸大臣

の実力者達のことである。(右は後の役職)

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竹下登(たけしたのぼる)に重用され、鍛えられた7人(出典https://rubese.net/lpedia001/target_ktai.php?name=%E5%B0%8F%E6%B2%A2%E4%B8%80%E9%83%8E&id=139743)

のちに彼らは7人中3人が総理大臣になり、全員が政界で重きをなした。(奥田敬和だけ運輸大臣と見劣りしそうだが彼は成田空港問題を対話で解決しようとした第一人者である、千葉県民に縁が深いね)
そして羽田は小沢、渡部、奥田らと共に自民党から抜けて、自民党1党政権を崩す。
その後、羽田たちは新たな政党、新生党を結党。
そして羽田は連立を組んだ日本新党の細川護煕(ほそかわもりひろ)内閣で副総理を務め、細川の後に総理の座に着くことになる。

森羅万象担当大臣〜64日間の死闘〜

さて、総理大臣になった羽田はどのような評価だったのだろうか。
「首相の器とはちょっと違うと思っていましたの」これは総理大臣就任直後の羽田の評価である。
これを言ったのは誰か、なんと妻の綏子(やすこ)夫人である。
当時の聞いた記者や羽田自身も身内からこんな厳しい評価が出ると思ってもいなかっただろう。
もしや夫婦仲は悪いのかと思いきや、むしろ良好。
「ママさん」「ツトムさん」と呼びあい、議員宿舎で一緒に暮らし、出来た文章は妻に聞かせて伝わらなければ書き直す。(余談だが国民に支持されるには主婦に理解される政策であるという考え方を英国ではキッチンテーブルテストと呼ばれて定着している。羽田は素でやってたのだ)
とても仲睦まじいが、夫人から見たらやっぱり「ちょっと違う」のだろう。
では実際羽田の総理大臣としての実力はいかほどだったか。
残念ながらそれは分からない。
なぜなら在任64日間、どでかい政策をやった訳でもなく評価しろという方が無茶な話である。
もし羽田が行った政策を挙げるなら、国民の声を聞こうと首相官邸直通のFAXを通した事だろうか。(そもそも首相官邸には手紙が毎日1000通近く届くので、FAX含めたらとんでもない量になってそうだ)
他には年内の公共料金の引き上げ凍結と予算可決ぐらいか。
なぜこんな短期となったのか、この時の国会議席を見てみよう。

衆議院 与党205人 野党305人
参議院 与党64人 野党188人

…圧倒的野党が多い。
なんと戦後国会史上最も少数与党なのである!(これはひどい)
普通ならそもそも総理大臣にすらなれないと思うが、これは当時の混沌とした政界の結果なのである。
ではなぜこんなへんてこりんな事になったのだろうか。

先程言った通り羽田達が自民党を離党したことにより、自民党政権が崩壊した。
しかし当時、野党はたくさんあって自民党の代わりに政権を担うには各政党が協力、いわゆる連立をしなければならなかった。
それで連立してできたのが前内閣の細川護煕内閣なのだ。
その連立なんと8党会派の超連立政権!
メンツは

日本新党
新生党
新党さきがけ
日本社会党
公明党
民社党
民主改革連合
社会民主連合

多くね…?(はーい、ここ早稲田大学の入試で出たよー)(←まじかよっておもた)

ようは8人違う考えの医者が一堂に集まって、日本という病人を手術しようとするのである。
そんなのなかなか上手く行くものではない。
結局8党会派の細川護煕内閣は内部紛争と細川自身のお金問題で終わりを迎えた。
そしてそんな不安定な状態を引き継いだのが羽田孜なのである。
しかしこのままでは運営がままならないとして、小沢一郎を中心に統一会派(ようは一緒になろうぜってこと)を作ろうとしていた。
しかしこれに連立内で一番議席を持っていた社会党が大激怒。
自分たちへの力を削ぐものだとして社会党は連立離脱、ご覧の少数与党になってしまったのだ。
当時の与党内は大混乱、内閣は簡単に作れるわけもない。

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臨時に総理がすべての大臣をかけ持つ一人内閣でしのぐ、これこそ真の森羅万象担当大臣だね(出典https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%BD%E7%94%B0%E5%86%85%E9%96%A3)

羽田は考えた。
引っ越したばかりの首相公邸の庭にある岩の上で座禅を組みながら考えた。
入居前にお祓いをしたこの首相公邸で考えた。(羽田夫人の友達が幽霊見えちゃったとか…)
しかし彼の苦労を鼻で笑うが如く内閣不信任案が提出され、可決。
最初は解散して選挙をしようと思ったが、結局羽田は総辞職を選んだ。
退陣時、感想を求められた羽田は「明鏡止水だよ」と軽く口にしただけだった。
綏子夫人は在任記録について「日本史上最短記録だろうと思っていたのですが、実は史上2番目だったのです。良いことも悪いことも含め、何事も1番になるのは難しいと、改めて考えさせられました。」と述べている。
どうにも一番になれない羽田は在任期間64日間で、本来あるはずの花束贈呈も無く首相官邸から去っていった。

…しかしこれだけでは少しさびしいので自民党時代からの羽田孜の人間性をもう少し深ぼってみよう。

農政の羽田〜食いしん坊ツトムちゃん〜

羽田孜は食いしん坊である。
パッと見そんなふうには見えないがとても食いしん坊である。
彼が成城大学時代、朝の授業で持ってきたお弁当を食べ、昼休みにはそば屋に行ってそばを食べ、5限目が終わると学食でラムネと塩せんべいを食べ、放課後は寄り道して中華そばを食べ、父親と住んでる議員宿舎に帰ったら揚げ餃子を作って食べる。(これが毎日の日課だと…)
そば屋ではいつもシャイな友達の代わりにたぬきうどんを大声で頼んでいたら、あだ名がたぬきになったとか…。
他にも羽田は「御膳って5膳のことだろ?」と言って毎日白米5杯を食べていた。(どう見てもデブキャラの発言です、本当にありがとうございました)
羽田に食いしん坊かと聞くと「そんなことないよ〜。小沢一郎なんか寿司50貫食べるし〜。なんで僕だけ食いしん坊キャラなの??」とマジ顔。
自民党竹下派は相撲部屋かなんかですか??

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コストコの寿司50貫、これをぺろりの小沢一郎もすごい(出典https://images.app.goo.gl/15AQ3c9v3zrEdN7E7)

そんな羽田は大蔵大臣になっても飯を食べることを大切にし、ある時金がないからとSPからご飯代を借りるほどであった。(金を扱う大蔵大臣がお金がない悲しさよ…)
羽田は偉くなっても変わらない食いしん坊ツトムちゃんだったのだ。

そんな彼が専門にしたのは農政だった。(やっぱり食い物か…とか言わない!)
羽田が入った当初の自民党農林部会は農作物の値段を上げるいわゆるベトコン議員が多かった。
しかし羽田は農作物の生産や消費に配慮しながら、輸出に力を入れたり農業の構造改善を目指す総合農政族と呼ばれ、頭角を現すようになった。
羽田は農林部会長になった時には生糸の値下げを断行することで、生糸の消費を拡大させたのである。
しかもこの時に羽田は絹製品をPRするためにワイシャツ、ネクタイ、靴下、下着まで絹製品を身に着けた。
まさに自身から広告塔になったのである。(なお絹の下着は素晴らしいと言って見せようとして、いつも女の子から逃げられたらしい。そらいい年こいたおっさんの下着見せらそうになったら逃げる)
また林政調査会長のときは、林業振興のため木で作った名刺を使っていた。
ただ口だけではなく、実践する羽田孜は営業のプロだろう。

ほかにも佐賀の水車小屋で育てた米が美味しいと聞くと取り寄せてみんなに食べさせたり、玄米のお粥がうまいと聞くとそれもみんなに食べさせて意見を聞く。(なんかスーパーの試食販売やってるみたい)
これに羽田の世話好きもまじるとすごいと保利耕輔(ほりこうすけ)は語る。
保利の娘がカルフォルニア産のクルミを好き好んで食べていると話を聞いたとき、羽田は「長野産のクルミの方が美味いよ!」とマウント。
保利はへええと聞いていただけだが、その数日後「世界で一番美味しい長野のクルミです」という手紙とともにクルミを保利の家に送ってきたのだ。
しかも本当に美味かったらしい。(ほらそこ!押し売りとか言わないの!)
かれはこのような農政への情熱から、農林水産大臣を2回も務めあげることになる。
また農水の後進を育てることも忘れず、農水官僚だった篠原孝(しのはらたかし)を8年かけて口説いて、政治家にしている。(篠原曰くストーカー行為)

昔、池田勇人(いけだはやと)元総理がドゴール仏大統領から「トランジスタのセールスマン」と評されたが、羽田孜はさしづめ「農政のセールスマン」だったのかもしれない。

ミスター政治改革〜小選挙区を目指し〜

羽田は様々なあだ名がある。
農政の羽田、ツトムちゃん、平時の羽田、バカボンのパパ…。(パパにツッコんじゃだめ)
そしてミスター政治改革である。
羽田が農政以外に持つもう1つの顔、それが政治改革である。
羽田が自民党にいた時代、ロッキード事件やリクルート事件などの汚職で政治家は国民からの信頼が失っていた。
この状況を打破すべくお金を貰わなくても政治ができる、選挙にお金をかけない小選挙区制を自民党を目指したのだ。
羽田はその小選挙区制を進める選挙制度調査会長に就任したのだった。
しかし中には小選挙区制にすることで選挙区が変わる者もおり、小選挙区反対派は多かった。(この時第1野党の社会党も消極的だった)
しかもせっかく作った小選挙区法案は当時の反対派によって廃案、当時の海部俊樹(かいふとしき)総理も辞任に追い込まれた。
しかし羽田はそれでも政治改革を諦めなかった。
その情熱の傾けっぷりに竹下派の上司、金丸信(かねまるしん)からは「政治改革という熱病にうなされている」と言われるほどだった。

どうやら羽田はいつも温厚だが、自分がこうだと思うと猪突猛進な節があった。
羽田孜の猪突猛進ぷりを石破茂(いしばしげる)が見ている。
第15回参議院選挙のとき、自民党は牛肉やオレンジ輸出による農政不信があった。
その参院選の応援演説のため鳥取に羽田が来たのだが演説時間が超過、石破が「時間がないので、演説時間は5分で結構です。」と焦った。
その瞬間である、羽田は顔を真っ赤にして怒鳴った。

「なにいってるんだ!俺は、ここに遊びに来た訳じゃないぞ。自民党に対する農政不信は凄まじいもんだ。俺は農政の責任者だと自負している。その責任者が、ここでお茶を濁すだけの演説でいいのか!誤解があれば少しでもそれを解くのが俺の役目だ!時間がない?そんなもの俺の飯の時間さえ抜けばいいだろう!」

…前述したとおり羽田は食いしん坊である。
しかし羽田はこのままでは国民が納得しないと思い、みんなが納得するまで演説を続けたのだ。
結局、夜に予定されていた地元の実力者との会食はキャンセル、羽田と石破は深夜営業のチェーン店舗のうどん屋でうどんをすすった。
羽田は政治改革も同じようにこのままでは国民が納得しないと思って改革を進めたかったのだろう。

そして運命の時が訪れる。
時の総理、宮沢喜一(みやざわきいち)が今国会で政治改革を進めると断言したが、反対派の動きにより頓挫。
この時に出された内閣不信任案に羽田と羽田派が賛成。
内閣不信任案は可決され、総選挙になって羽田たちは新生党を結党することになる。
ちなみにこの不信任案に賛成するとき、羽田は宮沢に一礼している。
なにを思って頭を下げたか、羽田が亡くなった今では不明だが彼なりの筋の通し方だったのだろう。
そして細川内閣を作ることで、とうとう目標の小選挙区制を本気で目指せることになったのだ。
ちなみにこのような大業を成し遂げた羽田はなぜ自身の内閣で解散総選挙をせずに、総辞職したのだろうか。
それはまだ当時小選挙区制が施行していなかったからである。
つまりもし解散をすれば小選挙区ではなく、中選挙区で行うことになる。
それは小選挙区制導入を唱えてきた羽田にとっては筋が通らないことになる。
結局、羽田孜自身の政治家としての、いや人間としての筋が総辞職、在任64日間を選ばせたのではないだろうか。

小選挙区制導入後の羽田は二大政党制を目標に行動するが、盟友であった小沢一郎と決別。
最終的には民主党にたどり着き、初代幹事長や最高顧問を歴任。
この時民主党の若手だった細野豪志(ほそのごうし)は羽田孜と渡部恒三からある教えを受けている。
それは「二大政党制の野党は、与党の政策と8割同じで良い。」との事だった。
二大政党制ということは政権交代が多くなる、つまり与党として現実的な運営をすることになる。
政権交代して外交や安全保障などがガラリと変わっては国は大混乱におちいる。
政権交代を叶えるためだけに聞こえの良い理想論や与党を引っ張る批判型野党では無く、長期的に政権運営ができる現実的な野党を作りたかったのだろう。
この言葉に羽田たちの政治への本気の思いと心配が感じ取れる。
その後羽田は脳梗塞を起こして後遺症を抱えたが、2009年の総選挙で民主党の政権交代を叶える。
そして2012年に政権交代は「私なりに満足のいく、改革の成果」として引退を表明。
5年後の2017年に老衰で死去、82歳だった。
金丸は政治改革に打ち込む羽田を「熱病にうなされている」と評したが、結局死ぬまで政治改革を進めた羽田はいっときの熱意ではなく、文字通り政治改革に生命を燃やし続けたと言えるのではないだろうか。
羽田孜の政治改革への思いと半袖スタイルは、息子で参議院議員の羽田雄一郎(はたゆういちろう)が引き継いでいるだろう。

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現在国民民主党の羽田雄一郎、党首の玉木雄一郎(たまきゆういちろう)と名前が同じ\キャッ♡/(出典https://s.response.jp/article/2012/07/08/177516.amp.html)

羽田孜の関連事物

羽田孜に関わる人物や場所、小話を少し。

小沢一郎

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羽田孜と小沢一郎は当選同期。
おしゃべりな羽田と寡黙な小沢は自民党時代は仲が良くいつも一緒にいたため、よく羽田と小沢は間違われたらしい。(もし議員秘書が間違えたら、やっべーぞ)
羽田の小沢評は「くま」だそう。🐻\クマー/
一度は仲違いしたが小沢が民主党に合流してからは関係が回復し、小沢が陸山会問題で苦しんでいるときに羽田は「俺とお前は一心同体だ」と支えた。
逆に体調不良で登壇が厳しい羽田が小沢に片腕を支えながら投票したシーンは彼らの友情を感じ取れる。
羽田の葬儀に友人代表として小沢は「もう一度、政権交代を実現し、我々が歩んできた道に間違いはなかったと、その時に孜ちゃんに報告できるようにしたい」と涙ながらに語った。
一度は別れたが彼らには本物の熱い友情があったに違いない。

橋本龍太郎

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同じ竹下派七奉行。
橋本が幹事長のときに羽田が筆頭副幹事長。
これは橋本が羽田に自身を支えてくれと懇願したから。
この時、若手中心に次期総裁に橋本を擁立しようと動きがあった。
これに対して反対するものたちが橋本の女問題を暴露。
勝手に擁立され、勝手に女問題を暴露され、橋本は日に日に弱っていた。
そんな橋本は羽田に自身の気持ちを吐露し、羽田はそんな弱った橋本の声に耳を傾け、支えたのだ。
また羽田が大蔵大臣に就任すると、橋本は前大蔵大臣としてよく大臣室に遊びに来る。
橋本は趣味の剣道の稽古のあと、軽く遊びに来てもいつの間にか真剣な政策話になっていたとか。
怒る、威張る、拗ねるで有名だった橋本だったが、羽田の前ではいつも笑顔だった。

志賀高原

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長野県の高原。
羽田が小田急バス務めのころ、羽田が乗ったバスが志賀高原の山道に差し掛かったときに猛吹雪にあって立ち往生してしまった。
あまりの猛吹雪でバスのワイパーが壊れて視界は何も見えない、しかしバス内には乗客がいるのだ。
そこで羽田はバスを降り、バンパーに足を乗せて雑巾でフロントガラスを拭き続けたのである。
まさに手動のワイパーである。
そして運転手はなんとかバスを動かし、乗客を安全な場所に運んだ。
この時羽田は背中に吹雪を受け続け、手も指先の感覚がなくなっていたらしい。
それでも乗客のために文字通り体を張った羽田孜だった。
ちなみに羽田は雪への怒りというか思いというか対策は凄まじく、羽田の選挙カーはなんと除雪車になっていた。
つまり羽田の選挙カーが自分の家の前に来れば除雪され、道が通れるようになっているのだ。
そらみんな羽田の選挙カーが来たら大喜びだったろう。
国民に寄り添おうとする羽田の気持ちが伝わってくる。

ふるさときゃらばん

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ミュージカル劇団。
内容は日本人の暮らしをテーマに地方や農村の話が多い。
無論農政の責任者を自負する羽田は農村という単語に反応。
どハマリして夫婦ですぐさま20年分の年会費を払い込んでしまった。
しかも最初は50年分の年会費を一括払いしようとしていたが、「半世紀後のことは分からない」と断られたそうな。(そりゃそーだ)
今は「ミュージカルカンパニーふるきゃら」という名前でやっているので興味がある人は見てみよう!↓
URL・http://www.furucara.com/

おわりに


ここまでかなりの長文をご覧いただきありがとうございました!(今回1万文字と長くなっちゃった笑)
稚拙な知識や文体ですが少しでも皆様の政治への興味関心に寄与できればと思っております。
もし間違い等見つけましたら何卒ご一報いただけたらと思われます。
また今回羽田孜という人間像を調べたとき、器の大きさを何度か感じました。
正直就任期間も短く、あまりイメージはなかったのですが農政と政治改革、そして国民に寄り添うが彼の筋だったのかなと感じ取れました。
通史だけでは無く人間を深ぼる面白さ、私はとても感じることができました。
やめらんねぇぜ、これ笑。
また次回でもお会いしましょう。
これからも何卒よろしくお願いします。

もののふ

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参考文献

『角栄以後』岩見隆夫(講談社)
『日本の歴代総理大臣がわかる本』岩見隆夫(三笠書房)
『自民党の若き獅子たち』大下英治(角川文庫)
『柔にして剛 人間羽田孜』大下英治(講談社)
『実録田中角栄と鉄の軍団』大下英治(講談社)
『小沢一郎VS自由民主党』大下英治(静山文庫)
『アホな総理、スゴい総理』小林吉弥(講談社)
『日本の内閣総理大臣事典』塩田潮(辰巳出版)
『総理大臣という名の職業』神一行(角川文庫)
『総理の座』田勢康弘(文集文庫)
『歴代内閣総理大臣のお仕事』内閣総理大臣研究会(鹿砦社新書)
『羽田孜という男』仲衛(東洋経済)
『平成20年史』平野貞夫(幻冬舎新書)
『総理の辞め方』本田雅俊(PHP新書)
『歴代総理の通信簿』八幡和郎(PHP新書)
『日本の「総理大臣」がよくわかる本』レッカ社(PHP文庫)
その他羽田孜との思い出や記録を書かれたブログ等様々なものを参考にさせていただきました。

おまけ


ここでは最後に羽田孜が仲人をするときにいつも読んでいる詩を掲載しておきます。

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