"みんな"という言葉への忌避感

切っ掛けは些細なことだった。
所謂、推しの配信で"皆が居てくれたから"とか"皆が慰めてくれたから"とかそういう言葉の積み重ねが切っ掛けだった。
なぜならその言葉の中には自分は居ないと、そう感じたのだ。本人にはそんなつもりは無いのは百も承知だ。

しかし、自分には落ち込んでいる人間を励ますことが出来ないと思っているので「そこには自分は含まれていないのだな…。」とそう思ってしまった。
誰かにヒントや切っ掛けを与える事は出来ても、落ち込んでいる人に対して励ます・慰めるという事がどうにも苦手なのだ。

落ち込んでいる相手に対して厳しい言葉を投げるとかそういうものではなく、なにも言えないのだ。
なぜなら、そういう時にいくら言葉を投げかけても最終的には自分自身で乗り越えないといけないと思っているからだ。

落ち込んでいる相手がどういう言葉が欲しいのかなんて事は分かっている。しかし、自分はそういう時に安い言葉を投げるという事に対してどうにも避けてしまう。
なので、そういう時は他の人間に完全に任せて、自分は迂闊な事を言わないように黙って見守る。

そういうのもあって、いつしか他人の言う"みんな"という言葉にいつしか忌避感を抱くようになってしまった。
当然、自分でも使う事が嫌なので、極力別の言葉を代わりに使うようになった。
こういうのもINFJが抱く"孤独感"のひとつなのだろう。

誰かが悪い訳ではない、強いて言うなら敏感になり過ぎている自分自身が悪いのだろう。
こればかりは誰かに言ったところで理解されないと思っているし、おそらく今後の人生でもこのどうしようもない孤独感を抱えて生き続けるのだろう。

元々、感性に関しては昔から他人とは少しズレているというのを分かっているからこそ不意に疎外感を抱いてしまう。

自分の周りに人間は、仮に自分が消えた時、もっと話をすれば良かった、もっと写真を撮れば良かったと思ってくれるだろうか…?など、考えても仕方の無い事を考えてしまう。
例えそう思ったとしても、その時には自分はもう居ないので時間が経つにつれて、そういった罪悪感もいずれ消えるのだろう。人間は辛い思い出を忘れることで生きていけるのだから。