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誕生日に珈琲ジェリーを食らう

誕生日の仕事帰りにコメダ珈琲に寄って珈琲ジェリーを食らう。自分の誕生日を祝っている意識はないけれど、こんな日くらいはなんだか自分に優しくしたくって、こうすることが多い。
何年か前にドキドキしながら初めて一人でこの店に入ったのがちょうど誕生日付近で、当時の私なりに奮発して注文したのがこの珈琲ジェリーだった。その思い出が強く紐付いている。

子どもの頃から誕生日を祝う習慣のない家庭だったし、それを気にしたこともない。私は両親の誕生日の正確な日付すら知らない。
ただ、大人になってなおいっそう“あなたは私にとって大切な存在だよ”と、分かりやすく気に掛けてもらえる口実が欲しくなってしまった。それをささやかに自己主張できる口実にしやすいのが「自分由来の何らかの特別な記念日」というわけだ。おめでとうが欲しいんじゃない。“ねえ、今日〇歳になったじゃん、今年も一年よく頑張ったね、成長したね”と言ってくれる誰かがいてくれたなら……と思わずにいられないのだ。

私は大人になって駄目になった。
子どもの頃はいくらでも我慢できていた寂しさも、近頃はこらえが利かない。視野は狭くなり、パニックになると私の中の正常な判断力が取り除かれて、もっと追い詰められてどうにもならないところまで行けばいいのにとよく思うことがある。自ら進んで破滅的な方向へ進もうとしてしまう。

ある人に、あなたは変わらないねと言われてしまった。多分、悪い方の意味で。私に呆れきってしまったのだと思う。
でも、実際はもっと酷い。変わらないのではなく、多分どんどん駄目になってる。大人になるほどに弱くなっていく。

“ねえ私、今日〇歳になったじゃん、今年一年頑張ったのかも分からない、成長したのかも分からないね。”

コメダ珈琲に行く前にスーパーに寄った。
寄ったはいいが、入店した途端何を買えばいいのか分からなくなってしまった。明日のための食材の見当がつかず、なんだかモヤモヤとした頭の中店内を空っぽのカゴをぶら下げうろうろして、途方に暮れてしまった。結局昨日バナナを2房買ったしいいやとそのまま出てきた。
自分のために何か美味しそうなものを作って食べることにおかしな罪悪感を感じて手が引っ込んでしまったのだけれど、その足で喫茶店へ行ってスイーツを食べているのだから矛盾している。

誕生日に珈琲ジェリーを食らう。最近はイラストも文章も気力がなくて描くのに苦戦する。続きが書きたくて自分の小説の読み直しを試みるも、目が滑って入っていかない。でも、今日はこんな記事でも書けたからちょっと調子はいいのかも知れない。


優しくして、優しくして、と子どもじみたことを思う。人には言えず、自分でも出来ない。だからちょっとだけ珈琲ジェリーに優しくしてもらう。

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