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困窮層DE京大出身の僕の今昔物語 黒のピース7「おとりと二回目の夜逃げ」の余談



不気味な声は、確かそんな呪文のような言葉だったと記憶している。


九州出身の方にこのおじさんの言葉の話をしたことがなかったので、それがそもそも福岡県の言葉なのか、それとも意味不明な言葉だったのか分からない。


さて、福岡県から車で僕たちは順々に九州を一周した。


長崎県と福岡県をのぞくと一ヶ月程度しか住んではいなかったが、ガソリンスタンドでの給油中に九州のどこかは覚えていないけれど、優しいお兄さんや給油中のおじさんやおばさんが話しかけてくれたことを覚えている。


正直、当時の僕なんてかなり臭っていたと思うのだけれども、首に巻いていたタオルで顔を拭いてくれてそのままくれたり、わざわざ恐らく近くの駄菓子屋さんでラムネ(ジュース)や駄菓子を買ってきてくれた人もいた。

九州の色んな地方で父は給油していたけれど、本当にどこのガソリンスタンドの人も優しかった。


父から食事や水を貰えるまで、称賛したり土下座している間、僕はその時のお兄さんやおじさん、おばさんの顔を思い出していた。

父は、僕に土下座をさせる時によくこの九州地方の方言を使っていた。

恐らく、父の世代なのか個人的なものかは分からないが、九州男児への強い憧れがあった


たいてい九州のガソリンスタンドでは、ナンバープレートを見て、遠いところから来てという話を両親にしていたと思う。

その時の母は、とても嬉しそうに家族旅行をしている話をしていた。

母は他人に良い母親だと思われることに必死な人だった。

もしかしたら話しかけてくれた方々は、何かを感じ取ったと今なら思うけれど、軽トラに給油をしにきていたおじいさんとおじさんの間くらいの人が、僕たちを家に招いてくれたことがある。

桜島の話を沢山してくれていたので、恐らく鹿児島県の家だったと思う。

一人暮らしのおじさんに、僕たちはさばきたての魚や温かい素麺のようなものをご馳走してもらった。

30歳を過ぎて、今こういった昔の思い出したくもなければ誰かに話したくもないことをつらつらと綴るきっかけは勿論あったのだけれど、僕が過去の話をするのはこれで2回目。

僕は恐ろしいことにずっと『誰も助けてくれない』と思っては、時に壮大に僕の人生は国のせいや他人のせいにしていたけれど、こうして嫌な記憶を思い出してみると、嫌な記憶と一緒に密封されていた、『助けようとしてくれた人たち』のことを思い出す。

これを書いている今も、その人たちの顔やタオルで顔をふいてもらった感触や、言葉や温かい素麺の入った茶碗のぬくもりや、大きな海に夕日が沈む景色を思い出していると僕は30過ぎたおっさんにも関わらず、鼻水と一緒に泣いている。

生きててよかったなぁと、心から思う。

ただ、自分の昔話を思い返すと真夏のような暑さの日に寒気がしたり、涼しいはずなのにマットレスにまで染み込んでいく大量の寝汗をかいていた。

文章にしようと思うと、頭の中に全然関係のない情景が浮かんできたり、僕はどうやら僕の心をあれ以上傷つかないように思い出を美化しようとしているらしい。

そんな時は、じっと一人で静かにしていると鮮明に思い出すことができるけれど、ここ数日は風邪ではない発熱で40℃を久しぶりに越えてしまった。

僕にとって思い出す作業は、どうやら肉体的には精神的にも苦痛らしい。

ただ、その苦痛の中に時々ある親切にしてくれた人たちのことを思い出すと、なんとも温かい気持ちになっていることも隠せない事実のように感じる。

毒親と呼ばれる存在に悩んでいる人も、貧困に苦しんでいる人も、困窮を恐れる人も、犯罪者になってしまいそうで不安な人も、そんな人に興味がある人にも役立ってくれると嬉しいです。