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困窮層DE京大出身の僕の今昔物語 黒のピース6 「福岡県三畳一間のアパートでの逃亡生活」


父は従兄弟の工場で働くことになった。


三畳一間の部屋に僕と母は、日中ほぼずっと座っていただけだったし、外出していいのは、父の休日のみだった。


同じように三畳の部屋が2階に5部屋、1階は倍の6畳の部屋が2部屋と共同のトイレがあった。


工場の近くにあった、父の従兄弟の奥さんの実家が所有していた単身用アパートで僕たちは暮らし始めた。


父の従兄弟の家は、とても立派な大きな戸建ての家で、母と僕は週に1度お風呂をもらうことができた。

あまりにも広くて、綺麗で、服を脱ぐことも、湯船につかることも躊躇するような綺麗さだった。

どうしてそんなことになったかと言うと、引っ越して数日がたった頃、ここの奥さんが僕たちの部屋まで訪ねてきてくれて、母に生ゴミの処理を週に1度やってほしいという話だった。

腐葉土にする機械のようなものが庭にあって、それらの掃除や生ゴミ処理、庭の雑草抜きや掃除、外からの雨戸や窓や屋根、雨どいの掃除を頼まれた。

母はできないことが多かったので、僕がそれらを受け持った。

しゃべっても怒られないし、終わると綺麗なお風呂に入れるし、僕はこの週に1度のお手伝いの日が大好きだった。


そしていつも大量のパンの耳を揚げたものに、砂糖をまぶしている食事を奥さんから週に1度、たくさんもらっていた。


僕と母はありがたく夕食に食べていた。


ここの奥さんの実家が近所でパン屋を経営していて、サンドウィッチ用のパンの耳の残りをたくさんもらえた。


それは、なにも食べるものがない時の昼食や間食に食べていた。


毎朝、六時に父は家を出ていた。


そこから、お酒を飲んで帰ってきたりするので夜は0時くらいに帰宅していたと思う。


僕たちがその部屋から外に出ていいのは、トイレに行くときだけで、食事も水も全て父が持ってきてくれるか、父の従兄弟の奥さんからもらえるパンの耳のあげたおいしいご飯かのどちらかだった。

部屋にあるのは、小さな靴を脱ぐスペースと、三畳の畳と小さな窓だけしかなかった。

水道の蛇口は、トイレの入り口の横にあるだけだったので、たまに洗濯をさせてもらったりもした。


母は基本、布団の中で寝ていた。


僕は、声を出すことを禁止されていたのでしゃべることはできない。


もし万が一にでもしゃべろうものなら、僕の顔はぐるぐるの刑か口封じの刑だったので、息をするのも一苦労だった。

だから、絶対に声を出さないようにしなければいけなかった。


でも父の休みの日、1週間のうちの1回は3人で外に出ることが許されたし、3分程度なら話すことも許された。


恐らく給料の前借りをしていたそのお金で、毎回父は駅前にあった中華料理店に連れて行ってくれた。


食事をするのは父だけで、僕と母はお水をもらって父が食べ終わるか、野球か何かのテレビを父が見終わるのを待っていた。


その帰りに、24時間開いているコンビニがあって、父はお酒を買うと同時に賞味期限切れの菓子パンやおにぎりをよくもらってくれた。


僕と母はそれをアパートに持ち帰って何日かに分けて食べていた。


添加物が問題視されることも分からなくもないが、少なくとも添加物のお陰で僕たちはカビの生えたパンを食べることはなかった。


父は、食料を持って帰ってきてくれる日もあれば、ない日もあったし、あったとしても先に母が食べる方が先だった。


この当時、母は妊娠していた。


一度母もいらないと言った、コンビニで10個くらいの賞味期限が切れたお弁当をもらった時、僕は吐くまで食べた。


吐いても食べ続けた。


そんな僕たちの生活に異を唱える人は誰もいなかったし、僕にとってこの食事は当たり前だった。


そもそも、今で言う産後鬱になった母は僕が生まれて2週間後に家出して、僕は母方の祖母の末の妹さんの家で2歳半まで育ててもらった。


祖母は僕を育てることは拒否し、祖母の言うことを昔から何でも聞く末の妹の家に僕は回されたらしい。

何十回か、母や祖母の妹夫婦に川岸や山に本気で捨てられたけれど、いつも誰かがみつけてくれた。

「連れ帰るのを忘れていた」が日常で、僕は0歳から2歳半までと2歳半から3歳半頃まで過ごしていた。

逃亡生活のいいところは、とりあえずは捨てられないところだろうか。


この生活は、半年くらい続いたが、父の従兄弟の奥さんが僕の父と不倫したことで終わりを迎えた。

毒親と呼ばれる存在に悩んでいる人も、貧困に苦しんでいる人も、困窮を恐れる人も、犯罪者になってしまいそうで不安な人も、そんな人に興味がある人にも役立ってくれると嬉しいです。