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困窮層DE京大出身の僕の今昔物語 黒のピース3「一家心中の止め方」
子供心に何かおかしいなとは、本能的に感じていた。
僕はTシャツを着る時に顔が隠れる瞬間が恐ろしいと感じる、記憶を探してもトラウマは見当たらないがおそらく乳幼児期に何かあったのだろう。
マスクみたいに口や鼻を封じられるものも、頭にパシッパシッと音がうなり出し、叫び出したくなっていた。
母が包丁を持ち出した時も、父が母を蹴り飛ばして包丁が箪笥の棚の隙間に綺麗に挟まった時もそうだったし、途中高速道路を降りて、川や海沿いで両親が口論をしている時も僕は毛穴がぶわっと広がって、生ぬるい汗が吹き出す恐怖を感じていた。
「そこ突っ込んでーや」
広島県の山中で身を隠すまでに、母は何度橋の上や、波止場でそう言ったか覚えていないし、激情した父が何度も何度も煽られて、海や川に車ごと飛び込もうとしたかは数えきれない。
水場に向かう時は、スッと両親の会話が終わるときだった。
その時だけは、ビリビリしたような空気も錯乱する母も罵る父もいない。
誰もいないような車内の中で、ぬるいと感じる空気がゆっくりと肌に触れると同時に、僕の手足がなぜか急に冷たくなる。
死に場所を求めた両親が、目的地についた瞬間、いきなり母の突っ込めという奇声が響き渡るまでは、とても静かで不気味なドライブを経験した。
母のお決まりのセリフに続くのは、父の「後悔すんなや」という大声が母の声を打ち消す。
その度に僕は笑った。
声をあげて笑った。
本能的に、あの時、泣いたり逃げ出そうとしては死んでしまう気がした。
まだ当時3才だったけれど、僕は直感で車で海や深そうな川に突っ込むことは恐ろしいことだと感じていたし、両親には既に生きる気力が無くなっているように見えた。
必死で何でもいいから笑えるものを探した。
橋の上で中高生の野球少年らしき人を指差して、「お坊さんのかたまりやん」と言っては笑い、別の橋では黒いゴミ袋が風に飛ばされているのを見て、「お昼に出てきたアホなオバケやで」と言って笑った。
波止場で通行禁止の看板があれば、車に×がしてある絵を見て「あの車飛んでるやん」と言って笑い、チカチカと点灯する外灯を指差しては何が面白いのか、僕は壊れたように笑い続けた。
必死に笑い続けた。
僕が笑えば、父は「何がそんなおもろいねん」と怒りながらちょっと笑って車をバックしてくれたし、母は「ごめんな、ごめんな」と言って泣いて謝った。
母はまるで悲劇のヒロインの自分に酔っているような、嘘っぽい謝罪をしているだけだったが、そんなことはどうでもいい。
僕の笑い声は、耳を通り抜けて頭に響きまわる。
心臓が痛いくらいに血流はトップスピードにのっていた。
笑い声が響きまわっている間は大丈夫、まだ生きている。
それでも、もうダメだと思ったのは、あの時は一度だけ。
父が、島根県の目の前が海と言う、普通の家族旅行なら喜ぶべきシチュエーションで思いっきり車を急発進させた時だった。
キュルキュルキュルと、タイヤなのかエンジンなのか分からないが、車から変な音がしていた。
あと、数センチで僕たちは海に沈んでいた。
身投げする直前で父が急ブレーキをかけて、僕は父と母の間に吹っ飛んでバックミラーに直撃した。
打撃の後に目をガッと見開くと、震える父の足が見えた。
僕の目が、右のこめかみから流れる血と涙と混ざった。
「パパめっちゃかっこいいやん」
泣き笑いする僕に、父は全身をガクガクさせながら「もっかいやろか」と言って笑った。
車から降りて、父とタイヤの位置を見ると数センチ、2センチあるかないか程度のギリギリでタイヤは止まっていた。
それからも僕は、両親が一家心中しそうになる度に車内にこれでもかと言うくらいの笑い声を響かせた。
喉が枯れて、声にならないような笑い声しか出せなくても、どんなに車ごと水の中に飛び込むことが、恐ろしいことかと伝えようと全身が震えていても、丸二日以上何も飲み食いしていなくても笑い続けた。
それまで生きていて、嬉しいことや楽しいことはなかった。
いつも、どこにいても両親の顔色を伺い生きていた僕は、それでも死にたくなかった。
道中、母は段ボールを束にするような、プラスチック製の幅1センチほどの平べったい紐、30メートル分くらいを、工場の横に転がっていた場所から盗んで車に詰め込んだ。
両親は死に場所を探してさ迷っていたが、水死することなく、何とか広島県の山中に避難することができた。
毒親と呼ばれる存在に悩んでいる人も、貧困に苦しんでいる人も、困窮を恐れる人も、犯罪者になってしまいそうで不安な人も、そんな人に興味がある人にも役立ってくれると嬉しいです。