好きな街

馬鹿な私が大嫌いな街

排気ガスを吐き出して、私を乗せたバスが高速道路へ入っていく。

唸る重低音が車体を揺らして、ドリンクホルダーのぬるいお茶を跳ねさせた。

寒気を感じて、膝にかけたコートをかき寄せる。

思えば、毎年暖房の効いていない、寒いバスだった。週に一度は運営会社に文句を伝えたはずなのに、最後までスタンスを変えなかったところは、いっそ尊敬する。



仕事人生の大半を過ごした街を、今日去った。

配属を命令され、赴くのを泣いて嫌がった街だった。

何度も地元に帰りたいと訴えたけど、叶えてはもらえなかった。

好きでもない街に居続けるのが苦痛で、休日になる度に地元に帰った。毎月毎月、交通費だけで手取りの半分以上が消えた。

日本の転勤システムは本当に異常だ。

海外を見てみれば、全国チェーンの企業だろうが、正社員からバイトまで全員現地採用だ。

拠点から各地に社員を派遣する日本のスタイルは、平安時代から続く古くさい悪習だと思う。戦国時代に一度瓦解したはずなのに、江戸時代でまた復活するなんて、どういうことなの?

安定した生活が、際限なく続く。好きな時に欲しいお菓子が買えて、少し高い化粧品を毎月買い足しても平気なのは、来る日も来る日も労働しているからだということはわかっている。

それでも、私という個人が、日々人生を生きているかどうかは、ずっと疑問だった。


親しい友人や大事な家族と離れ、一人孤独に遠い街で暮らす。

出勤し、労働し、頭を下げ、借家に帰り、冷凍食品を食べて、寝る。朝日が昇ればまた、同じことの繰り返しだ。

職場の他のメンバーの仕事量なんて気にかけず、定時にさっさと退社する。

どうせまた明日も会うでしょ。相談事は明日にして。私は自分の仕事が終わったから帰ります。

アフター5は、借家に直行。スマホとPCだけが友達。

喫茶店巡りや、写真や、ウィンドウショッピングなんてものに楽しさは見いだせない。知らない街で、初めての場所へ出かけることに、何の喜びも感じられなかった。

今まで出会った人たちを大事にしたいから、これ以上の付き合いは増やそうとは思わない。お酒も飲めない私は、新しい友人を作って飲みに行こうとも思わなかった。

仕事の酒の席なんて大嫌い。一分でも早く家に帰るために、愛想笑いと話を広げないスキルだけが磨かれていった。

縁もゆかりもない街で過ごす時間は、ゆるゆると私の首を絞めていった。

ただ生きてるだけなんて、死んでるのと変わらない。

このまま自分を殺されることに耐えられなくて、気力を振り絞ってそこを去ることを決めた。

慣れ親しんだ一日の流れ、ルーチンワークががらっと変わることには、一抹の不安も抱く。

けれど、あまり寂しくもなければ、そう辛くもない。いくつか未練はあっても、この街を離れること自体には何の感慨も沸かなかった。

荷造りしている間だって、「早く全部詰めてしまおう」以外に、何の感傷も浮かばなかった。



最後の一週間、色んな人が私に会いに来てくれた。

お手製のお菓子を焼いて、持ってきてくれたお客様。

回り回った話を聞いて、飛んできてくれた先輩。

営業に来ていた取引先様が、今聞きましたって慌てて来てくれた。

仕事上がったばかりの別部署の後輩が、連絡先教えてくださいって来てくれた。

勤続年数も単身赴任歴も私より長い上司が、長い間ようがんばったな、って電話をくれた。

一緒に働いてきた部下たちが、涙ぐんで、嫌がって、どうにか無理矢理笑顔を作って、送り出してくれた。

眉を下げて、寂しいって訴えながら、挨拶しに来てくれた人たちの顔を、初めてじっくり眺めた。

この街には仕事しかなかったけど、だからこそ仕事で関わった人たちにたくさん囲まれてたらしい。

この街で過ごす最後の夜、後輩の一人がお時間くださいって会いに来てくれた。

「もっといっぱい遊べば良かった。いつでも会えると思ってたから」って、泣かれてしまった。

その場は笑って別れたけど、荷物を載せたトラックが出発して、借家の家の鍵を返して、バスに乗るチケットを買って、気づいた。

馬鹿だなあ、私。

もうあの人たちとは、個人的に会う約束を取り付けなきゃ、二度と会えなくなっちゃうんだ。

そそくさと定時に上がって帰って、何時間か後にまた顔を突き合わせる日は、もう二度と来ないんだ。

仕事で会う人たちだからって自分に言い訳して、放ったらかしてたんだ。

時間と人に、あぐらかいてたんだ。

遊びに行こう、ご飯食べに行こう、たまには愚痴言いなよ、って、ずっと声をかけてもらっていたのに。

「どうせまた明日も会うし」「週明けに会った時でいいか」「まあまた、来月くらいに機会もあるかな」

そんな風にうそぶいて、全部ふいにしてきたのは、私だ。

飲めないお酒でも飲んで、仕事中にはできない、くだらない話をすれば良かった。

翌朝しんどくても、深夜まで馬鹿笑い響かせて、遊びに行けば良かった。後輩たちの直属の上司には言えない愚痴を、いくらでも聞いてあげれば良かった。

パートさんたちの子供自慢してる時の幸せそうな顔、もっといっぱい見ておけば良かった。

私の知らない、この街の素敵な景色を、要らないくらい教えてもらえば良かった。

あんなに、私に会えて良かったって言ってくれる人がいたのに、私はひとりで孤独なつもりになって、優しい人たちをないがしろにしてたんだ。

今でも、日本の転勤システムは異常だと思う。

でも、会社の強制命令じゃなきゃ、私はこの街に来ることもなく、優しい人たちにも会えず仕舞いだったはずだ。

行ったばかりの頃は、忌まわしい街でしかなかったけど、今となっては情もある。

別れを惜しんで、もっと一緒にいたかったと思える人たちに出会えたのだから。


見慣れた街並みが、どんどん遠ざかっていく。

さようなら、大嫌いな街。

もしいつかまた来ることがあれば、探検してみよう。大好きな人たちと一緒に、素敵な景色を探して。

バスが大きく揺れて、冷えた水滴がコートを濡らした。

何でハンカチを持ってバスに乗らなかったんだろう。

やっぱり、私は馬鹿だ。

ここから先は

0字

¥ 100

サポートありがとうございます!とても励みになります!! こちらは、今後の制作や研究、出展に充てさせていただきます。