無題


 
 
自分のために、自分の一旦全てを反省しなおす必要を薄々感じており、普段は人の書くインターネッツ文章に対して真面目に向き合うことはなく、自分で書くことも全くないのですが、今できそうだと感じているため書き起こしている次第です。去年の秋から今年の夏まで。アリムラさんやコサメガ、ベテランちの手記をみているとかっこいいのでやりたくなったと素直に言えばいいのですが、反省は本当にした方がいいです。こないだ出たコサメガのCDに付属している文章は合成音声を扱う上で、ましてや音楽をやる上での意識にアップデートを加えてくれました。いい友達を持てて幸せだとしか言えない。


去年の秋ごろ、フジファブリックの「陽炎」という楽曲のカバーをサウンドクラウドにてリリースしました。
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フジファブリックは幼少期から家庭で流れ、無意識的に聴き込んでいたバンドです。旧体制時代のボーカル兼コンポーザーである志村さんは憧れの人です。(故人であり、志村氏が逝去されて以降を新体制と呼ぶこともあるため前述の表現)その楽曲を他人に紹介するならば、とにかく変で、とにかく実直と言えばいいのだろうか。今聞いても展開や歌詞の非凡さに震える時があります。彼のバックボーンとバンドの形式から楽曲がロックサウンドになることは当たり前のことではあるのですが、楽器という枠組みから彼の曲を解放したらどうなるのかという思いがあり制作しました。と、今になってこじつけることもできたりする。
少しずれますが、フジファブリックが活動休止を発表しましたね。そしてヨルシカのsuis氏による「若者のすべて」のカバーが、よくありそうな恋愛映画の主題歌として採用されていました。そこそこの憤りを感じています。フジファブリックの世間的イメージはこの楽曲に依るものが大きいのはわかっていますが、制作会社がウケを求め続けた結果触れてほしくない領域に手を出された感覚があります。しかしこれは私含めファンの半数ほどが旧体制の彼らを忘れることができず、新しい形を模索し活動していた彼らを長年受け入れられなかったことが招いた事態でもあるわけで、どうしたらよかったのかと無力を勝手に噛み締めるしかできない。

このカバーは自分の中で非常にしっくりきた作品で、録音環境に何も手をつけていない割にはそこそこいいものができたと感じたことを覚えています。どうやって作ったのか今は思い出せませんが、(ほとんどの作品そうなのですが)久しぶりに滞りなくDTMができて楽しかったことは覚えています。その頃から肉声を用いた楽曲の制作に意欲があり、またそれと同時に合成音声を扱う技術に対する自信の喪失がありました。
リンさんは元気いっぱいなのに、ピアプロスタジオをどれだけこねくり回してもしっくりこない。自分の声に興味が湧くにつれ合成音声に関して考える機会も増え、周りにいる皆さんと合成音声に対する愛の種類が違うことを理解し始めました。(私はキャラクター的解釈をあまり行わない)そこで、冬に至るにかけて録音環境を少々整え自分の肉声と向き合ってみることに決めました。どうせならまとまった作品を作りたく結果ボツは3つほど、デモは4つできたことを記憶しています。
 
そのような体型での制作を二ヶ月ほど行ったわけですが、そこで得ることのできた気づきは一つだけでした。私は歌に向いていない。環境が整っていないことで、私は私の可能性に無限の出力を期待していたようですがそんなことはなかった。マイクはハイエンド機種を購入しなければあまり意味がないことも把握しました。少々の頑張りで満足できるほど私の声は魅力的でなく、私の耳は肥えていたわけです。
同時期に、私の旧友である那なみきから「ミックスをちょっとやってみてくれないか」という話をもらい、パソコンのマイクで録音したというボーカルデータをいただいた。私が二ヶ月本気で向き合って整え続けた声データより良かった。彼女は声楽をしっかりやっていることもあり、歌という現象に対して向き合った時間が私より遥かに長いのだから当たり前の話ではあるのですが、この時点で、私の肉声をメインに据えた楽曲の制作は諦めました。
 
また当時、もう一つ私の目指すところだったボーカロイドを用いたクオリアに対しても難航していました。(今も目指している。)鏡音リンさんの声で制作したクオリア(vocalsynth等プラグインの使用、打ち込み、いろいろ試しました)にはしっくりくることができず、(私の愛と努力が足りていないという指摘に関してはぐうの音も出ませんが)肉声を用いていた二ヶ月はこの問題への解決策を探していく二ヶ月でもありました。そんな中この楽曲がリリースされました。
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私含めKAIRUI、quoree(敬称略)に憧れている皆様方は、同時に初音ミクを用いたクオリアに恋焦がれていることでしょう。私にとってさまざまな意味で非常に近く、素晴らしい友人であるsakuはこの憧憬に対して一つの回答を出しました。それはそれは感動し、悔しい経験でした。
 
私にとっての初音ミクは思い出そのものであり、その他の合成音声とは頭抜けて認識に差異があります。初音ミクが初音ミクとしての地位を獲得し、固有名詞から一般名詞になっていくさまを中学生時代目の当たりにしてきたからです。その他クリプトンの合成音声たちが私のオタク的側面を作り上げ、人生を豊かにしてくれたかけらだとすれば、初音ミクはそのかけらをはめていく器そのものの一つと言えるでしょう。だからこそ、初音ミクが私の手の中にいること自体に違和感を覚え、初音ミクを用いることを避けてきていました。一種意地であり、リンさんを用いることからの逃げだからいけないと自分の中で捉えていたこともあります。
(私が今の合成音声のアレコレに対して疑念を抱いてしまうのはこれに依るからかもしれません。しかし私の中で納得がいかない時、半分はこの理由からで、もう半分はその奥にいる表現者の振る舞いが理由であることも最近わかりました。)
肉声を用いることに諦めがついてしまい、自分の主張を声として表明する手段がなくなってしまったとき、私は上記のしがらみを捨てる決断をしました。吹っ切れたという表現が最も正しいかもしれませんが、sakuと相談をしていたとき急に決めたことを記憶しています。もうそれしか思いつかなかった、という表現もできる。
 
結果、先に出ていたデモ4曲の中から一曲を抜粋し、初音ミクさんに歌ってもらうと共に改変を加えることで線考は完成しました。一週間かからなかったです。初音ミクが私にとってコントロールし得るメディアになったという衝撃は忘れられない。エスピテーメーの分断
私にとって初音ミクは思い出であるという認識、その愛の意味は今でも変わりませんが、使うことを危ぶんでいたその気持ちは全く思い出せません。悲しいですね。

楽曲の内容は、cwondoとukukasai(敬称略)のお二方に最も影響を受けました。本当に好きで、全てを真似したいという欲求からいかに逃げるかになってきているため自省をした方がいい。
開放型のヘッドホンの扱い方がようやくわかってきていたため、発表は全くしていないもののミックスの技術は上がり続けていました。そこはこだわりポイントではあります。イヤホンを発表してから、自分のDTM筋肉があまりに凡庸であることに対して過剰に評価をいただいているというコンプレックスがずっと付き纏っていました。(技術に一定の自信を得た今、イヤホンという楽曲に関して引け目を感じることはなくなりました 拙さに恥ずかしくなることはまだありますが)私はこんなに酷いのに、私の尊敬してやまない人たちはどうして私よりも反応をもらえていないんや、という考えですね。これは今でも思っていますし、(ゴリラ祭ーズのみなさまなどが代表例です 爆売れしていいと思う)思っていなかったりもしますが、音楽で売れていくということを考えれば考えるほどただ悲しい構造を前に膝を落とすのみではあるため、今大学で行っている研究で気を紛らわせているところです。
イヤホンの次に出たオリジナル楽曲なのになんでこんなに違うんだ、と困惑された方もいらっしゃるかもしれませんが、私の中では緩やかに変わる気持ちと少しの改革により生まれた素直な作品だと自負しています。

線考に込めていることは、Dumb Type出版「memorandum」を読めばこの曲を聴くより遥かに密度のある形で伝わるでしょう。古橋悌二という人間の言葉を受け売りしたと言えばそこまでです。
この頃大学で現代芸術をただひたすら見聞き、その後解説を受ける講義を履修しており、その中でダムタイプを知りました。この講義が私に与えた影響は凄まじく、人間として別物になったと自負しています。具体的に言えば、芸術作品(特に音楽作品 自分が最も従事している場所である自覚があるからでしょう)に対しての批評判断基準が変わりました。元がどうだったかはもう覚えていない。
現代芸術とされているものの多くは社会的問題をテーマに扱っていることが多いです。私が特に感銘を受けたのは、社会問題の当事者が作品を残しているケース。どれもセンセーショナルで難解であり、解釈の余地を探さなければ、自分の無知を鏡映しするだけのものにしか見えません。当講義が良かったのは、その作者のバックボーンについて詳しく学べたことでした。彼らは、自らがトレンドである社会問題の渦中にいる人間であることを理解し、苦しみ、しかし当事者であり続ける。その姿、また思考を作品という形で提出し、それは意思表明になり、投じる一石になり、諦めになる。社会に影響を与えることもあり、何も変わらないこともある。その姿が、非常に眩しく見えました。
私は彼らの食い扶持を知らないし恋人を知らないし性格を知らないが、彼らの自己顕示は、私たちとは覚悟が違うことのみを伝えてくる。彼らは作品を通して社会を変えようとしている。(しかも自分を取り巻くトレンディーな社会問題を)
彼らと我々で最も異なるのはここではないかと思います。社会にいる以上、社会問題に包まれているのは私も彼らもあなた方も変わらない。その当事者であるという意識を持ち、その上で芸術がそれを変えられると信じて行動する。今のボーカロイド界には間違いなくいないんじゃないでしょうか。(わからないなりに強い言葉を使ってみたい) 
ゴリラ祭ーズ 古賀礼人ソロEP内でのコメントに、私をこのような思考に持ってきた古橋悌二の言葉と酷似している点があったときは本当に驚きました。(二日前とかです)本当に人に恵まれている。ゴリラ祭ーズはもっと爆売れしていいと思う。

私は別に社会に切り込んでいるかどうかを判断基準に据えたのではなく、そのような覚悟性を纏っている作品とそうでない作品を見分けることができるようになった気がしているということです。その覚悟の純度が高ければ、向いている方向は社会でも自己の内面でも内輪でもどこでも問題ないと思っています。まっすぐな言葉、まっすぐな愛、それしかないと思わせる表現、何かに対する讃歌、人の見える音、など。様々です。素直さと表現することもできるかもしれない。しかし何か欠けを感じるため、適語でもないな。
音楽制作と完成形の頒布において、自分たちの行動や言動がコミュニティや社会に対してどう影響しうるか、そしてその影響の及ぶ先をどこまで見据えて行動に反映しているか。リベラルな側面のみを切り出して言葉にするならばこうなるかもしれません。その意味で線考は、この冬の自分の転機をボーカロイド界の皆様に宣言する、といった覚悟を持って制作したという振り返り方ができるとも言えます。

春になってからこの夏までは、ゴリラ祭ーズのサポートとエンジニア関連+ほしのおと出演の二つが大きい出来事でした。大学2年の冬、イヤホンのデモを作りながら妄想していた「音楽を通してやりたいこと なりたい自分」がほとんど終わってしまったんじゃないかと思ってしまいます。

・思ったより多くの人にイヤホンが届く事態になり、10000回も再生してもらった
・めちゃくちゃ好きな人たちからフォローをもらえた
・音楽で友人がたくさんできた(もっちりしたパンやサカダケイたちとはど深夜までゲームをするような友達になれました すずめのめ、saku、コサメガなど、尊敬できかつ会って遊ぶくらい仲良い友達もできました)
・結構自分を構成するくらい聞いてる憧れの人たちと喋れてしまった
・音楽で8000円も稼げてしまった
・めちゃくちゃ好きな人たちと同じフライヤーに名前が載った

改めて、人と運に恵まれすぎているなと思います。あと残っているのは、ニコニコ超会議ででっかくDJをすることと満足いく作品集を作ることだけです。前者はあまりに現実味に欠け、後者は難しすぎる。私は実生活+思考で苦しんでいる時しか制作に身が入らず、今そのどちらの要素も研究に注がれてしまっています。また、その状況を自分で作り出す「泳ぐ真似EP手法」を取る覚悟もまだありません。最近はひたすら自分の弱さを悔い、たまにやる気を出し、大半諦めている。

今私に残されている熱意は社会を変えたいという一点であり、大学での勉強によって獲得したデザインというツールは、死ぬ気で頑張ればそれを達成できる可能性を僅かに秘めています。そうなるとそちらを向いてしまっていて、シンプルに言えば卒研がめっちゃ楽しいというわけですね。今私は「鑑賞とは何か、それを練習できるタイミングを基礎教育に入れこめるとしたらいつで、どんな手が有効なのか」を研究しています。冬の講義の影響をモロ受けていますが、有意義だと感じています。

しかし、研究に身を入れ始めてから、音楽を外で聞かなくなって、人混みにいることが苦でなくなってきて、今までしなかったお金の使い方をし始めました。DTMに心血を注いでいた自分からゆっくり変わっていくと同時に、表現者である覚悟のようなものを忘れていっている気がします。それは忘却というより霧散に近く、それらに執着をしていない自分が少しでもいることに悲しくなったりもする。自分は結局何になりたいのか、まだわからないままです。

出演というのはその点、DTMで苦しむ自分でいつづけられる心地のいい拘束でした。ほしのおとに出演できたこと自体も、良い作品をクラゲくんと作れたこともあり得ないくらい嬉しかったですが、苦しんでいた時の自分を忘れずにいれていることへの安堵もそれと同様大きいものでした。何が言いたいかというと、私は出演をたくさんしたいということです。声があまりにかからないのは作品の圧倒的少なさが理由であることは理解しているため、こんなことを言うより早く作品集を作る方がいいことはもちろんわかっています。苦しい。
この手の文章を書くと非常に頭がスッキリしました。明日発表の研究資料に全く手をつけずこの駄文に2時間を割いてしまったことを悔やみつつ、全くわからない次の更新にオチの匙を投げようと思います。

7/15 23:58 タチマナユ


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