ライターというものは、常日頃、いかにして「自分を消すか」ということを考えている。「エッセイは有名人が書くからこそ価値が生まれ、読みものとして成立する。無名の人が書くものは自己満足に過ぎず、自慰行為と同じだ」
そんなことを有名雑誌の編集者に教えられたことがある。そう、つまりこの文章は自己満足だ。それを踏まえて好き勝手、書いてみよう。

私もライターの端くれとして、これまでさまざまな文章を書いてきた。webライターがライターに入るのか入らないのか論争については、少しの間、その辺によけておいてほしい。これはまた別の機会に話すとして。
私が、これまで仕事として書いてきた文章のほとんどは、無記名だ。「思う」「だろう」など、主観ととらえられる表現は絶対禁止。「私は」なんて主語が入った文章を書いた記憶はない。読者から見て、お客様から見て、取材対象者から見て……。客観的に判断できる内容かどうかが重視される文章。ポートフォリオとして出せる記事はほとんどない。ライターとしてのキャリアは、「私」がいない人生だった。

ライター5年目を迎えようとしたある日、1通のメッセージが届いた。そこから紆余曲折あり、私は新しい働き方LABのコミュニティーマネージャーとして活動することになる。
「数年後、どうなりたいというキャリアビジョンはありますか」
割愛した期間のなかでそう質問された。
「わかりません」
私は即答した。目の前の仕事に食らいついて、がむしゃらにこなして。毎年、自転車操業感が否めない。自分が良い文章を書けているのかどうか、常に自問自答している。そんな私に将来を思い描く余裕なんてなかったのだ。
結局、「楽しそう」という好奇心が勝ったがゆえに、現在もコミュニティーマネージャーとして活動しているわけだが、活動していけばいくほど、「いちフリーライターではなく、滝沢紘子としてどう働き、どう生きるか」そんな、個としての姿勢を求められているように感じている。

これまで私が働いてきたのは、「誰かがこう話していた」と、書けば良い世界だった。しかし、足を踏み入れた先は、私としての言葉が求められる世界だった。こんなにも、わくわくして怖い世界はない。自分の考えに周りはどう思うのだろう。否定されたらどうしよう。誰かを傷つけたら、間違っていたら……。今まで感じたことのない恐怖が押し寄せる。TwitterやFacebookで自分の考えを書き綴れる人を尊敬する。怖い。怖い。怖い。noteなんて恐れ多い。まったく論外な世界だった。

しかし、この数カ月間のなかで、私は個として何をすべきか考え続けた。今も考えている。私は、考えるのが趣味なのだ。この話も、また別の機会にしてみようと思う。とにかく、私は考えに考え、私がどういう人間であるか周りに示していく必要があると思い始めた。
「どうせ、無名な私が書いたところで、自己満足の世界だ」
そう開き直って好きなことを書いてみよう。そうして投げられたこの文章が、誰かの目に留まり、「こいつ、面白いな」と思ってもらえたら。こんなにうれしいことはない。

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