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corona -コロナ狂騒曲の一演奏者として-

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音楽をやっている方なら見慣れた記号だろう。
フェルマータである。
拍子の運動の停止を意味し、音符や休符を延長する働きをする。面白いのは延長の長さが特に決まっていないことである。使われる場面ごとで、適切な延長の長さに合わせ演奏される。

思えば音楽記号には曖昧な表現が多い。音楽用語にはイタリア語の形容詞が使われることも多く、例えばアレグロは「速く」を意味する音楽用語ではあるが、元の意味はイタリア語で「陽気に」である。
つまり、厳密に言えばアレグロは「速く」演奏をするのではなく、「陽気さ」を表現するために、結果的に演奏が「速く」なるということなのだろう。

そもそもこうして楽譜、音楽記号を読み取って演奏するのは、作曲家が直接指示を与えられないからである。言わば楽譜とはマニュアルであり、それを見れば誰もが演奏できるようになっている。
しかし、先ほど取り上げたように、表現に含みがある故、それを見た全員が同じ演奏をする訳ではない。指揮者が作曲家の世界観を想像し、それを基に解釈をするのである。
有名な例をあげると、ベートーベンの「運命」第一楽章は、テンポの早いカラヤン指揮とテンポの遅いベーム指揮とでは、演奏時間が1分30秒程も違う。同じ楽譜なのに、である。

ところで、このフェルマータに関して驚いた出来事が中1のときにあった。中学にあがってイタリア語が堪能な先生に音楽を教わることになった。
すると、先生はこの記号を「フェルマータなんて言わない。コローナだ!」というのだ。曰くイタリアをはじめとする外国では、見た目のままコローナ(王冠)と呼ぶのが標準らしい。

人間には何でも王冠に見えるのか今度のウイルスもコロナと名付けられている。
悲しいかな同じくコロナの名を冠すコロナビールは今回のパンデミックの風評被害で約310億円の売上が失われたというから、楽譜上のコローナさんの海外での処遇も心配になる。

さて、新型コロナウイルス感染拡大防止のために行われた全国一斉休校やステイホームももはや過去の記憶となりつつある。
日本において行政府から出された休業要請、自粛要請はあくまで「要請」であるから、それに従うか従わないかは各自に裁量の余地があった。社会情勢、自らの置かれた立場、他者との関係性など多くのことを考慮に入れ、自粛・休校を延長するのか、それとも再開するのか各自に判断が求められた。

解釈によって延長する長さが変化する。

奇しくもそれは音楽記号のコローナと重なった。

音楽では、作曲家が生み出した世界観のもと楽譜が書かれる。そして指揮者はその世界観に共鳴し、音楽記号や用語による指示について自分なりの解釈を行う。演奏者はその指揮のもと世界観の再現のために音を奏でる。

一方、コロナ禍ではどうか。
我々の社会において目指すべき世界観を提示しているのは、憲法と言える。実際、法務省は憲法の意義として「日本国憲法をはじめとする立憲主義憲法は、みんなで自由で公正な社会を築き、支えることを目指すものであるといってよいでしょう。」と述べている。
そして、社会を目指すべき世界へと実際に導いていくのは統治機構であり、中でも行政府の役割は大きい。行政府は目指すべき世界の実現のため、憲法に定められた事項に縛られながら様々な施策を市民へ提供する。

しかし憲法と言えば必ずセットで思い浮かぶのが「解釈」である。憲法もまた解釈の余地のある表現であり、為政者はそれに縛られる存在ではあるが、解釈によってその縛りはある程度変化する。

今回のコロナが突き付けた問題は、公衆衛生においては人々の行動を規制しなければならず、憲法に保障される個人の自由と相反する点である。
しかしながら、完全に相反するとは言い難い。憲法では個人の自由を保障する一方、市民の生活を守る義務も定められている。感染防止か経済か、に代表されるよう本来どちらも達成されるべき価値が両立し難い状況が生まれているのである。

こうした状況下で、政治はその価値の両立を目指しながらも、それらに優先順位をつけざるを得ない。これはまさに目指すべき世界とはどのような価値が重視された社会なのか考えることで解釈そのものである。
そうした価値判断の末に行政府から市民に出された要請という形の指示は、「提案」とも捉えられる。「我々は目指すべき世界の実現のために、こうした行動を推奨しますが、実行するかは皆さん次第です」である。

私はこのような形の指示であったのは、健康的であったと考えている。なぜなら、最終的な価値判断が市民の手に委ねられているからだ。罰則付きの行動規制を行った国々では行政の示した価値判断が絶対であり、市民はそれに従わざるを得ない。もちろんこの形には一定の合理性があり、結果として政策的な成功を収める場合もあるはずである。

しかし、このような「上からの価値判断」は成功したときには、お上への過度の信頼感情が生まれ、失敗したときには、為政者のみを盲目的に批判する未来を導く気がしてならない。
民主主義の本質は、国民が政治を決めることである。にも拘わらず、成功した為政者に本来自らすべき価値判断を委ねるようになったり、または自らが選んだ為政者の失政をただ糾弾するだけになったりしては、健康な民主主義が実現できない。

では最終的な価値判断が市民に委ねられていることは本当に良いことなのか。法務省は次のようにも言っている。
「『自由で公正な社会』は、誰かに任せておけば自然にできあがるものではなく、一人ひとりが社会の運営に参加し、常に努力し続けることで実現・維持できるものです。」
コロナ禍ではまさに市民一人ひとりが社会の運営に参加しているという意識を持たされる。そのうえで我々の目指すべき世界とは如何なるものか、その実現のためには何をすればいいのか、という思考を促される。そうした思考の結果は千差万別であり、誰かの価値判断が、誰かにとって許容されないものである可能性もある。だからこそ、マスク着用拒否や自粛警察といった事象が起こるのである。こうした混乱が起こるのはやはり政治が「正解」を市民に強制しないからだろう。

しかし、我々は目指すべき世界像を自分の頭で解釈し、その実現に向かって努めることで自由と公正な社会を保障できる。絶対の統一解を与えられていないからこそである。この明確ではないという煩わしさや、市民次第で如何様にもなれるという脆さは、我々の主体性、自由を保障するうえでの必要条件ともいえる。

楽曲をいかに解釈するか、どんな世界観に自分は共鳴するのか、これは初心者には難しいことである。何度も楽曲を鑑賞し、背景知識や音楽用語を勉強する。そうしたトレーニングを通じてはじめて自分なりの解釈をできるようになる。

我々の社会も同じだと思う。今を生きる人々は自分の生きている社会についての背景知識を十分に持ちあわせているだろうか。目指すべき世界とは何か、真摯に社会と向き合っているだろうか。
無論、これができていないからと言ってその人を責めることはできない。これは教育の無策であるとか、社会制度の変容など外的要因によって左右される。

コロナ禍の「自粛要請」騒動では、市民の考える力が試された。そしてそのスキルは「自由で公正な社会」を実現する域にまで達していないことが明らかになったのではないか。これを契機に、やはり我々は自分と他者との関わり、自分と政治との関わり、自分の目指すべき世界の解釈について今一度考え直すべきである。

しかし最も大切なことはこれを個人任せにしないことである。
なぜなら今日の世の中は考える人々に対して少々世知辛い。いち早い決断が求められ、あらゆる場面で効率化が闊歩する。一方で「考える」という行為は立ち止まる行為でもある。一見ぼーっとしているのと見分けがつかない。
それに、より良い解釈をするためには、個人の努力だけで習得し得ない多くの知識や経験、適切な思考方法などが必要である。

若者に限らず全市民が立ち止まる時間を与えられ、また適切にトレーニングできる環境を整えることはコロナ禍が明らかにした社会の要請だと言えよう。

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P.S
せわしなく過ぎるこの世の中で大人はまして学生でさえ立ち止まっている余裕はないように感じていた。そんな中、コロナ禍の「自粛要請」は多くの人々に小休止を与えた。この文章は立ち止まって思索に耽った備忘録として。

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