価値観について考え、ふと思ったこと

背景を一にする集団のなかで、同じ価値観が形成されることは容易に想像でき、その中で生きる分にはそこでの価値観を重視すれば十分だった。昔は遠距離移動もできず、通信技術も発達せず、世界の未知が多かった。社会は極めて狭かったのである。


しかし、工業、科学技術の発展により、人間はより大きな範囲で他人と関わり、未知を知ることができるようになった。そして、次第にその広がりゆくフィールドで生きることを求められるようになった。
そうした流れのなかで、自分とその周辺では共有される価値観が通用しないことも増えた。そして、視野を広げることが必然に求められるようになった。


しかし、馴染みのない価値観を前にしたとき、拒絶反応がでることもある。ただそんなのとき、無理にその価値観を受け入れなくていい。馴染まなくていい。でもそうした価値観を、自分がもつ価値観と同じように持ち合わせる人間が在ることを理解しなくてはならない。

近年、その価値観の多様化についていけず、同じ価値観を有する者のコミュニティに回帰する流れが見られる。もちろんそこでの生活は楽なのだ。ただ、その流れを全面的に押し通し、世界を数千年前の状態へと戻したいのであれば、システムから変えなければならない。そうした回帰を望む人々が着る服はどこでつくられているだろうか?彼らが使う電化製品はどこで作られているのだろうか?彼らが消費する化石燃料はどこからきているのだろうか?世界中から集まったものなのではないのか。

私たちは私たちの生活のために、フィールドを広げ、繋がってきたのではないだろうか。

「私たちはあなた達にお金だけ払うからモノだけ頂戴ね。それ以外の関係は結構よ。」それで果たして成り立つのだろうか。
もちろん、小さなコミュニティのなかで全て自給自足できるコンパクトな生活を実現できるのであれば、問題はないのだろう。しかし、結局は資源を争い、食糧を争う人々の末路しか想像ができない。
もう一度同じ歴史を繰り返すことになる。
同じ失敗を繰り返すことほど意味のないことはない。

今もまだアマゾンの奥地にすむ原住民族のような極めて小さな社会に生きる人々は、そのまま生きていけるし、繋がりをそこまで必要としていない。多様な価値観を知る責任も必要もない。また、そうした極めて狭いコミュニティに住む人々を「文明化」させてあげるという行為は意味のないことである。多くの覇権国家が失敗してきた。

僕が前提とするこの様々なものごとの認識が全て正しいとは思わない。寧ろ、現代においても、宗教や伝統といった未知の時代に形作られたものが依然として力を発揮していることに、少なからず、価値観の相互理解が進まない一因があると考えられる。

だが、この認識の大筋は間違っていないと考えてくれる人が一定数いるのも事実だろう。

今日の社会は良くも悪くも、極めて狭い範囲のコミュニティは減り、この悠久の大地のどこもかしこもが繋がりあっている。

そして、この世界の流れを冷静に認識し、頭のいい方法で人類が発展していく必要性を切に感じている。

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