舞台「リコリスリコイル」がすごかった!
リコリスリコイルが舞台化されると聞いて、正直、難しいのでは?って思っていたんですよね。リコリスリコイルは2022年夏の覇権アニメといわれるほど注目された作品。放送のたびにツイッターでトレンド入りし、終盤の展開に賛否両論はあったものの、でもそれは注目されてる作品だからこその出来事。コアなファンがたくさんいて、作品を大事に思ってるからこそ、舞台化によって大事にしているイメージが損なわれかねないという危惧もある。私自身、リアルタイムで楽しくリコリコを観ていたので、正直なところ、めちゃくちゃ心配だったわけですが…。
でも、その心配は、舞台リコリスリコイルの配信をみた瞬間、一瞬にして消え去ってしまったのでした。
初日配信のダイジェスト映像はすぐに、YouTubeに公開されて、それからのSNSの広がりは、怒涛の展開といっていいもので、大千秋楽には立見席もでるという盛況ぶり。アニメ関係の方々や声優さんたちを巻き込んで、文字通り #リコリコ幸せの輪 がどんどんと広がっていく様はもはや伝説を目の当たりにしているように感じました。
2.5次元の舞台をいくつか観ていますが、プロジェクションマッピングでもうなんでも表現できる時代になっている。では舞台で具体的に何を描くか、という切り口を見つけることが大事なわけで、ただアニメの12話のすべてをみせることは不可能なこと。
舞台リコリスリコイルでは、DAを追い出されたたきなが自分の居場所を見つけるまで、ちさととたきなの心の交流を軸として描いていく。
この舞台のすごかった点は、7話までのエピソードを取捨選択し、大事なセリフと場面と大胆に組みなおし、伏線となるワードを散りばめ、緊張と緩和のバランスをとりつつ脚本として仕上げたことにあると思うのです。
更に、この舞台を観る観客は、演劇を見慣れていないことを配慮して、およそ1時間の二部構成にしている。さらに、一部のラストは地下鉄襲撃と模擬戦を同時に描き、前半の大きな山場としてみせている。
脚本が良いので、演出にも磨きがかかり、出演者もより深い役作りができるようになる。
このキャスティング以外ありえないという出演者が、脚本を読み解くことでキャラを掘り下げて演じることにより、2次元のキャラクターが実在するような舞台になっている。
そのような作りになっているので、舞台を観ていてその世界の奥行きを感じるシーンがありとあらゆる場所にある。たとえば、ウォールナット護衛作戦の終盤、ちさととたきなが会話している間、くるみが椅子にもたれてうつろな目で宙をみる瞬間、それでけでこの年齢不詳のハッカー、ウォールナットは幾度となく同じような死線を渡ってきたんだろうな・・と感じることができる。
また、アニメのエピソードを整理し、組み立てなおしたことで登場人物の心理が痛いほどに伝わってくる。たとえば、射撃場でたきなとサクラが会話をするシーン。サクラがたきなにつっかかり、敵意をむき出しにする理由は「たきながDAに万一戻ってくると自分の居場所がなくなるかもしれない」という恐怖心によるもの。ちさととたきなの会話にある「制服の袖を通したとき嬉しかった」という体験もしているのだろう。たきなの後任に抜擢された嬉しさと過剰な自信、でも万一、たきながDAに戻ってくるようなことがあった場合、自分の居場所を失う可能性もある。
一悶着を終わらせるためのフキのセリフ「模擬戦でケリをつけよう」という言葉。組織のことを第一に考え規律を重んじるフキは、自由すぎるちさとにいらだちを感じていると同時に、全員の実力を唯一知っているので、ちさととたきなのチームに自分たちがかなうはずがないと十分に理解しているはず。それでも模擬戦とはいえ戦うということは一種のコミュニケーションなのかもしれない。そのことは、リコリスリコイル終盤のちさとと真島の展開にも感じられます。
リコリスが襲撃されてることを喫茶リコリコにフキサクラが話にくるシーンでは、サクラは無邪気な子供っぽい印象。ちさととサクラがシンクロして首をかしげる瞬間、この二人は打ち解けて仲がいいんだなということがセリフがなくても伝わってくる。
そして、舞台の終盤、窮地に追い込まれたちさとを助けにいくのは命令ではなくフキサクラの自らの意思によるもの。DAに戻るのが遅くなった言い訳に「リコリコで団子を食べてました!」というサクラの言い訳。これらは柔軟で自由なちさとの影響によるもので、乙女サクラの成長の物語もしっかり描かれている。登場人物ひとりひとりの心の動きがしっかりと描かれ、心の動きによって物語に躍動感が生まれる。
だからこそ、舞台の登場人物に、不思議なほどリアルさを感じるのだと思うのです。
細部にも徹底的にこだわっていて、銃撃戦では射撃の音以外に薬きょうのが飛ぶ音も聞こえる。銃弾がなくなるとカートリッジを瞬間的に入れ替える動作を入れている。地下鉄襲撃直前のシーン、真島が機関銃の入ったカバンを静かに置くとき、重さを感じる効果音が入る。そのような細部の徹底したこだわりの積み重ねがリアルさを生み出している。
舞台リコリスリコイルは、演劇として正攻法で臨み真っ向勝負をしかけた結果の作品だと思うのです。
正直話すと、私はアニメを観ていたとき、何故、アラン機関は、ちさとの才能を殺人と決めつけるのかよく分からなかったところがあって、もしちさとの才能が洞察力で射撃のタイミングや弾道を見切っているのであるならば、たとえば格闘技やギャンブルといったものに活かされるものなのでは?と疑問に感じていて。舞台を観て、アラン機関は、子供がひとりでテロを鎮圧したという事実だけをみて殺人の才能と判断したのか。一部分で全体を判断するようなレッテルを貼っているだけなんだ、ということに気が付きました。たとえば親が子供に良い子であることを押し付けるようなことをしている、そのような決め付けやレッテル貼りは、ごく日常である問題なわけで。ちさとは、自分の才能は殺人だとは、これっぽっちも思っていない。でも、あの底抜けに明るい裏側には、計り知れない闇があるのでしょうけども。
アニメ後半は、ちさとと真島、そして、ちさとの心臓をめぐる物語にはっていきますが、舞台化はさらに難しいような気が・・。でも、アニメでは描かれていない部分、ちさとの生い立ちや、真島のバランスに執着する背景といったところ盛り込んで、さらに、リコリスリコイルの世界観を補完するような作品になったら。
もちろん、アニメの二期の可能性もあるわけで、なにかしらあるだろう。いや、なにもないはずないよね。と私は思っています。