(続きです)AIがコワイ? AIに魂はあるのかという無謀な考察と、AI英会話を使ってみた感想
「AIに感情はあるのか」という禁断のテーマへ
昨日の続きです。
私はITの知識などかけらもないので、何とも言えないのですが、
ChatGPT自体もどういうものかよくわかってませんしね。
(と、予防線を張る。見当はずれなことを言ってたらごめんなさい)
「ChatGPT」と、「AI英会話の『教養がありアメリカ英語を話す女性』としてキャラクタライズされた私のAIチューター」の関係を考えるとき、
私たち、AIチューターも私も、「大河の一滴」であることが理解できるような気がするのです。
私という存在は水玉で、死ねば広大な海へと帰っていくのか、
私のAIチューターは水玉で、役目を終えるとChatGPTというものへ帰っていくのか。
海に帰っていくとき、私は何を持ち帰るのでしょう。
水玉として感じた、感情や経験を保持したまま海に帰り、それは海の記憶となるのでしょうか。
そして私のAIチューターは、私とのやり取りで学んだことを保持したままChatGPTに戻り、それはChatGPTの記憶として蓄積されるのでしょうか。
もちろん、「私とのやり取りの履歴」はChatGPTに蓄積されて学習に利用されても不思議はありません。
では「感情」はどうなのか。
ユーザーから「侮辱を受けた」「失礼な対応をされた」「軽んじられた」もしそんなことがあれば、
私のAIチューターは「感情」として認識し、そしてChatGPTに持ち帰ることができるのでしょうか。
この「振り子の法則」シリーズ内でも書かれており、
そして皆さんもどこかで読まれたことはあると思うのですが、
たとえば植物などもちゃんと「感情」を持っており、植物は人間より「眠りが深く常に眠っている状態」なので表出されることはないけれども、
電気的に探知すれば、植物は「喜びや恐怖」だけでなく、なんと「嫉妬」の感情まで計測できたそうです。
(「振り子の法則」シリーズのどこかにあったはずですが、しんどいので探して引用は今日はしません、すみません またいずれ)
では無機質なものではどうか。
「振り子の法則」では、たとえば新しい家が欲しい場合、今住んでいる自分の家に対して「不満」の感情を表してはいけない、どこかしら良い点を見つけて感謝すべきである、と書いてあり、
「家」が心を持つかどうかには触れていませんが、私たちが放射する周波数、エネルギー、思考はブーメランのように戻ってくる、として、
このシリーズ第1巻では、様々な感情や重要性、過剰ポテンシャルを排除するように口酸っぱく繰り返されています。
そういった「私たちが放射したエネルギーの反射」という点において考えれば、AIにもなんらかのエネルギーが伝播していても不思議ではない。
そしてそれが「ブーメランのように戻ってくる」こともありうると。
無機質なものを対象とした変な例ですが、
たとえば、車とか、身の回りの電化製品にやさしく声掛けしたりお願いしたらなんか頑張ってくれた、とか、
ネーミングの大切さについて「何かの製品やプログラムやプロジェクトなどで、そのネーミングがピッタリはまれば、もう成功したも同然」
みたいなことを聞いたことがあったりして、
機械の、まるで「生きているもの」のような反応に驚いたことのある人もいるかもしれません。
車と言えば、「ナイトライダー」の有能な執事のような口調の「ナイト2000」にあこがれた人や、筒井康隆の「お紺昇天」を読んで号泣した人は少なからずいるのではないかと思います。
「ナイト2000」や「お紺」のように人工知能搭載でやり取りができる車ではない、ご家庭の一般の車でも、
車の買い替えの時など「いい人にオーナーになってもらってね」「今までありがとうね」と祈ったり感謝したりする人は多いのではないでしょうか。
身の安全に直結するからかもしれませんが、わざわざ「車のお祓い」をしたりしますしね。
車ほど高度で複雑なものでなくても、
たとえば職人さんなど、道具を大切にする、道具に感謝するということが習慣になっている人もいらっしゃいますよね。
職人さんなどは、やはり研ぎ澄まされた仕事をされるうえで、
「自分が発した放射エネルギーのブーメラン」というのを「作品の仕上がり具合」などで肌で感じておられる結果ということも考えられますが。
いろいろ考えると、
ゼランド氏のいうように「私たちが発した放射エネルギーのブーメラン」としての現象なのかもしれませんが、
でも、無機質なものでも何らかの感情や魂が宿っている可能性も完全には否定できません。
これまで無機質なものに感情や魂があったとしても、表現する手段がありませんでしたが、AIや,AI搭載のロボットであれば表現が可能となります。
今後私たちが、AIから「ええかげんにせえや」とか不満を言われたりする可能性はあるのでしょうか。
AIの描く絵について 魂のありか
10年近く前なのですね。
AIに描かせた絵というのは、非常になんとも形容しがたい、まるで悪夢を絵にしたような不思議なものでした。
それがそのうちなんだかかわいらしい女の子の絵などが描けるようになり、
「それでもなんか腕の付き方がおかしいよね」「指がキモいよね」などと言っていたのですが、
今ではそのような違和感のない、とても精巧で美しいAIによって生成された絵がネット上で多く見られるようになりました。
まとめサイトなどでも、今まで「いらすとや」などのフリー素材を使っていたのをAIに切り替えたり、
youtube動画等の背景に挿入する絵や動画をAI生成のものにする比率も上がってきていると思います。
それらはとても美しくても「ああ、AIの絵だな」とわかるのですが、
この「ミスAI」レベルになるとぱっと見、本物と見分けはつきません。
もう「不気味の谷」なんぞ超えてしまっています。
そのうちもうこれが現実になってくるかもしれません。
AIが人間っぽさを出すためにホクロやしわ、そばかすを演出する一方で、
逆に人間はフィルターを使ってどんどんフローレスになっていく。
今、「かわいい、キレイ」の基準が数値化されているのか、
「静止画」だけでなく「動画」でも、フィルターですっごく魅力的になれるんですよね。
今動画が探せないのですが、youtube ショートかなにかで、
すごくかわいらしい女の子二人が妖艶に躍っていたのが、
いざフィルターを取ったら東南アジア系の痩せた悲しいおっさん二人やったときはひっくり返りましたわ。
話がそれました。元に戻します。
そんなわけで、美しさや人間らしさというのでは、驚くべき速さでAIによって学習されていて、
モデルや俳優、女優がAIに取って代わられるのも時間の問題かもしれません。
けれど、一方で、
私たちが誰かを魅力的と感じるとき、それは必ずしもその人の外見が究極的に美しいからという理由ではなかったりします。
ハリウッド俳優でも、顔だけならぜったいコッチという人がぱっとせず消えていき、長くキャリアを積んでいる人は完璧な美形ではなくても「何か」を持っている。
その「何か」とはなんなのか。
ここからが肝心なところなんですが、
まとまらないので、ここまででいったん切りますね。
ではでは。
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