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つきなみですが、はじめました。まずは子供の頃の話から。
はじめまして。noteはじめました。バブル入社の50代会社員です。
最近何をやっても上手くいかず、反省することばっかりで、自信も無くして、何とかしたいので、今までの人生、好きだったことを中心に振り返ってみようと思います。
今まで日記や手紙を書くことで、精神的な危機を脱した経験はあります。そして、何年も前から「いつか書くことを生業にしたい」と思ってきました。このままに何もしないでいるとあっという間に人生が終わるな。という危機感もあり、他の人に読んでもらえる環境で書くことを決意しました。
4月の新年度までには、精神的に自分を立て直したいと思っているので、週に1回、全部で8回を目標に、今日は小学校までの自分を振り返ります。
四国の農家の跡取り娘として生まれ、野生児ともいえる幼少期を田んぼや畑や川や裏山で過ごしました。凧揚げ、基地づくり、ひたすら川上へ源流をたどる、山の反対側まで行ってみるなど、外で遊ぶのが大好きでした。家事や農家の仕事の手伝いも楽しくやっていたように思います。
保育園に通っていたころは「ずうとるび」が好きでよく歌っていました。いつも山田君のパートを担当してました。先生のことも友達のことも好きで、園の行事には全力で挑む、明るく負けず嫌いな園児でした。
男の子に生まれたかったこともあり、小学校に上がるころには、ブルース・リー好きからのジャッキー・チェンという流れでアクション映画、特にカンフーものにはまり、2年生くらいまでしょっちゅう喧嘩してました。あだ名は「女ドラゴン」でした。男子2名と喧嘩して勝ったけど、シャツの袖が肩のところから破れたとか、石を投げられて額から流血したまま帰ってきたとか。手がかからない子供だったと思っていますが、大人になってから母に「鈍感な子供だった」と言われました。
両親の夫婦喧嘩の様子を克明に記した作文を、参観日に披露したり、ちゃんと洗濯してるんだから何の問題ないと、卒業式にオーバーオールで参加したり、そういうところが鈍感だったのかもしれません。
3年生が終わるころには、算数が苦手だと気付きましたが、国語は大好きで図書館の本の貸出票に名前を書くのが趣味と言いそうになるほど、本を読みました。物心ついたころには本が好きでした。今の私の歳で亡くなった祖母が、庭先で絵本を読んでくれたのが、3歳くらいの記憶として残っています。
日本の昔話と世界のお話シリーズの絵本を何度も読みました。今でも覚えているのが、イタリアのチッコペトリロという子供を産む予定のお母さんの話。まだ生まれてもいない子供のことをあれこれ心配するのは愚かなことだよ、というお話で、子供心にとても納得したものでした。
小学校では、図書室と校庭によく居ました。15分しかない休み時間にもドッジボールをするために走って校庭に行きました。骨折して左腕にギプスをしてるのに、右手だけでやるほど、ドッジボールが好きでした。
学級委員をはじめ、〇〇委員はいつもなにかしらやっていました。いじめられてる転校生のことは、全力でかばっていました。正義感が強いという意識もなく、普通に。
通信簿にはいつも「もっと努力をしましょう」と書かれていました。要領がよく、たいして勉強しないのに、成績が良かったからだと思います。
ある日気づいたのは、勉強ができて、真面目で素直でってなんか嫌味だなということ。意識的に、ちょっとドジなキャラクターを演じるようになりました。ある意味可愛くない子供だったと思います。そのせいで今でもちょっとドジなままです。
母が手芸好きだった影響で、お裁縫も大好きでした。リカちゃん人形の服を縫ったり、夏休みの宿題でワンピースを縫ったりしてました。4年生のころには足踏みミシンを使っていました。ミシンを使うのは今でも大好きです。運針音がたまらなくいいですよね。
夏休みに、ラジオ体操に毎日参加してスタンプをもらうことはできるのに、毎日の天気を書きこむ表を書いてなくて困ったり、読書感想文とか、自由研究は苦にならないのに、計算ドリルが終わらない、そんな偏った子供でした。夏休み明けの日焼けコンテストではだいたい1位。不名誉ですが、先生から「忘れ物の王様」という称号もいただきました。毎日のように何かしら忘れ物をしていたので、本物のドジっ子だった可能性もあります。
2歳下の妹がいるのですが、子供のころは喧嘩ばかりして、あまり好きではなく、取っ組み合いの喧嘩をして、怒った父に、二人揃って土蔵に閉じ込められたことがあります。かび臭い真っ暗な「お蔵」の中で「もうしませーん!」「ごめんなさーい」と手を取り合って仲良く謝るのに、出してもらえると、またすぐ喧嘩。何かというと、「お姉ちゃんなんだから、我慢しなさい」と言われることにうんざりしていました。妹と、敬老の日に老人会の皆さんの前でピンクレディーの歌をダンス付きで披露したことがありました。歌を歌うことも大好きでした。
毎日好きなことをして、嫌なこともあったと思うけれど、あまり思い出せないくらいだから、幸せな日々だったと思います。あの頃はなんでもやってみようと思って、なんでもできると思って生きてたなあ。従兄のお下がりをよく着てたのでいつも男の子と間違えられて、それも別にいやじゃなくて、すくすく育っていたと思います。いまさらながら、両親に感謝です。
で、次回中学時代に続きます。
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