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5回目はイタリアで就職した話です

人生初の海外旅行が、そのまま初就職。今なら大丈夫か?と思うところですが、当時の私には最善のプランでした。

途中で乗り継いでイタリアに向かう飛行機は、雪の影響で大幅に遅れ、真夜中に到着しました。迎えにきてくれた上司は、薬局の入口に立っているカエルの人形に似ていました。こういうことをいつもつい、考えてしまいます。

オレンジ色の街灯が照らす石畳と、石造りの古めかしい建物、もう、それだけで、来て良かったーと思うほど感動しました。ここでも寮で暮らすことになっていて、建物の1フロアを、先輩3名と私達の5人で使うと聞いていました。その日は先輩達への挨拶もそこそこに、やけに高い天井に驚きながら眠りにつきました。

仕事の内容は日本料理のレストランのウエイトレスでした。職場には日本人、イタリア人以外にフィリピン人、バングラディシュ人、中国人と多国籍な仕事仲間がいて、皆、イタリア語か日本語を使っていました。少し勉強したとはいえ、イタリア語での会話は、ボンジョルノ(おはようございます)から始まり、ピアチェーレ(初めまして)、グラッツィエ(ありがとう)、アリベデルチ(さようなら)くらいからスタートですから、少しずつ、覚えていきました。昼間のお客様は日本からの観光ツアーのグループが多く、接客は日本語中心でした。夜は現地で働く日本人とイタリア人、時には他の国から来た観光客と、色々だったので、イタリア語も英語も使っていました。仕事で使う言葉は割と限定されるのですぐに慣れました。生活で使う言葉は失敗しながら覚えていきました。それも大体悔しい思いとともに。外国人として暮らすことは、言葉の問題以外にも、差別されているというか、見下されているというか、嫌な目にもあいます。レジに小銭がないからと言っておつりをもらえないとか、並んでいるのに順番を抜かされるとか、そういう時にちゃんと文句を言えるようになることを当面の目標にしました。

あんなに憧れていたイタリアですから、毎日、通勤のバスで聞くイタリア語も、道端で出くわすイタリア人も、街並みも、教会や、広場や、市場や何もかもが興味深くて、ホームシックになる暇もありませんでした。ただ、イタリアで暮らしたいという夢がかなってしまったことで、その先をきちんと考えていなかったことに気づいてしまいました。とにかくイタリアを満喫しようと、フィレンツェ、ミラノ、ヴェネツィア、ローマ、ナポリ、ポンペイとあちこちに出かけました。

映画「眺めのいい部屋」に出てきた広場はフィレンツェのシニョーリア広場だったと、フィレンツェに行ってから気が付きました。列車の窓から中部イタリアの田園風景を見ながら、何とも言えない郷愁を感じました。初めて来たのになぜか知っているような感覚で、塔がたくさん建っているサン・ジミニャーノや、カンポ広場で有名なシエナや、斜塔で有名なピサなど、ひたすら街を歩きまわるため、休みの日にはあちこち出かけました。

住むところもあり、昼と夜の食事もついていて、お給料は多くはなかったから、贅沢はできませんでしたが、連休には旅行、普段のお休みには映画館に行って、月に1つだけ、欲しいものを買うという生活で、今考えると質素だったけど充実してたなあと思います。蚤の市で服を買ったり、近所の公園で読書をしたり、美術館に行ったりと、最初こそ、先輩たちがあちこち連れて行ってくれましたが、1年目の後半からは一人で過ごすことが多かったように思います。

最初の夏休みにはロンドンに行きました。ベッド&ブレックファーストを電話で予約して、知らない人の家に泊めてもらうというのは新鮮でした。映画博物館に行って、夜はカレーや中華を食べました。地下鉄を待っていると、「この電車は〇〇〇に停まる?」と聞かれます。「ごめん。旅行者だからわからない。」と答えるのですが、どこに旅行に行ってもこのように、道を聞かれたり、写真を撮ってほしいと話しかけられたりします。話しかけられやすい顔なんでしょうね。

パリ、マドリッド、バルセロナなどにも行きましたが、やっぱりイタリアが一番好きだな。と思いました。

2年目には運命的な出会いがありました。新しくレストランで働くことになった3つ年上のイタリア人の女性と、最初に一言交わしただけで、打ち解けて、その後30年以上続く親友になりました。彼女と彼女の彼とで、野外上映の映画に行ったり、砂浜で寝袋で眠って翌朝泳ぐといった海水浴や、ヴェネツィア旅行にも一度一緒に行きました。どうしてこんなに気が合うのだろうと、不思議なくらいに、一緒にいて楽しく、映画の話や、本の話、恋の話や人生の話と、たいしてイタリア語ができたわけでもないのに、語り合いました。「袖振り合うも他生の縁」という言葉がありますが、どうしてもこの私のイタリア好きがこの人生だけのものと思えないのは、彼女との出会いもあります。きっと前世でもつながりがあった人だろうと思えたし、私はきっと前世でイタリア人だったことがあると思うんです。

もう一つ、イタリアで出会ったのは合気道です。たまたまレストランに食事に来た合気道の先生に、武道に興味があること、昼休みが3時間くらいあってその時間に通えると都合がいいと話すと、なんと、特別に稽古をつけてもらえることになりました。子供のころから興味があった武道(当時はカンフーでしたが)をちゃんと習う機会が訪れたんです。合気道は日本に帰ってからも続けて、今はちょっとお休みしていますが、あと一つ試験に受かると黒帯というところまで漕ぎ着けました。あの時、イタリアの道場で、素質があると言ってくれた先生のおかげです。

他にもイタリアで出会ったのは、塩野七生さんの「イタリアからの手紙」と吉本ばななさんの「キッチン」です。寮の本棚にあった塩野さんの本を読んで最初、著者が男性か女性かわからなかったんです。でもその硬質な文章にすごく惹かれて、その後はずっと本が出るたびに読むようになりました。日本に帰ってから一度、知り合いのつてで、ファンレターを渡してもらうことができて、なんとお返事をいただけました。額装したそのハガキは今でも私の宝物です。ばななさんの本は日本から誰かが持ってきてくれて、読んだのですが、なんでこんなにせつなくなるんだろうと胸が苦しくなるくらいに感動して、それからずっとファンです。時々、今の自分はばななさんに恥ずかしくない生き方をちゃんとしているだろうかと自問したり、本棚の吉本ばなな棚からあれこれと引っ張りだしては折に触れて読んでいます。伊豆のシャボテン公園に行くことになったきっかけも、ばななさんの本ですし、もちろん「イタリアンばなな」も読みました。ばななさん大好きです。

イタリアでの2年間は本当に濃くて、楽しくて、失敗もたくさんしたし、後悔することも少しはありますが、とにかく、その後の私の人生に大きく影響しました。2年の契約社員として働いていたので、イタリアに残って仕事を探すという選択肢もありました。ただ、こんなに楽しいからといって、日本で働くことを一度もしないまま年を取るのは心配だなと思いました。海外での生活が長すぎて国籍不明の人になるのはちょっと危険だなと。それで日本で一度ちゃんと働いでまたイタリアに来ようと決めました。そして、バブル期の最後の恩恵で、日本で総務部長の面接を受けるだけで、今の会社のどの店舗にも支配人から推薦してもらえるという破格の待遇で引き続き働けることになりました。

2年間で得たことは、世界のどこに行っても、おそらくは生きていけるだろうと思えたこと、外から日本を見ることができたことでほかの人と違っててもいいし、むしろその方がいいと思えるようになったこと、生涯の親友と巡り合ったこと、たくさんの思い出ができたこと、自分の好きなものを再確認したことでした。

最後まで読んでくださって、ありがとうございました。次回日本に戻ってからの人生を振り返ります。

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