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「未完成」っていう作品をドキュメンタリーとして享受するのにもっと見方を変えた方が楽な気がするという話

未完成の感想をいろんなところで読んでたまに見る「泣けたか泣けなかったか→だからJO1が好きかどうか」って感想にフォーカスを当てたい。

 まず、ドキュメンタリーって聞いて「見たことなかったJO1がそのままいっぱい事実として映ってるんだろう」って思ってた人が多いと思うんだけど、それはたぶん少しだけ違う。
 ドキュメンタリーの定義はこの世にありすぎて勉強する人によって変わるんだけど、一つの考え方として大前提ドキュメンタリーって事実を映してるわけじゃない。事実だけ映してんのは、それドキュメンタリーじゃなくて記録映画に近い。(じゃあ記録映画も事実ですかと言われるとそうではないけど)

 ドキュメントって、この場合「自分の言いたいことを立証するために用意された資料」の使い方をする。つまり、「自分の言いたいことをいろんな証拠を並べて伝えて伝わった」ら目標達成。
 簡単に言うと、マイケルムーアが「金融ってこんなところがあんだよ!ありえないでしょ」って思って欲しくて作ったドキュメンタリーみて、みんなが「まじじゃん!ありえねぇ!」って思えばOKってこと。

 未完成のドキュメンタリーは今回このタイプ。
見た人に「JO1の今までの道のりがこれに繋がってるよね、JO1最高だね」って証拠を見せて伝えられたらOKっていう作り方。
 だから今回は真新しいものがなくても良いし、見たことないJO1を映すこともそんなにさして必要じゃなかった。それより、「あの時こうだった、あの時こうやって思ってた」って気持ちを掴む方が目標達成には近道だったんだろう。
「未完成」はかなり綺麗にまとまってて監督の言いたいことミッケするっていうより、「これです!これ!!もろこれなの!見える?!」って感じの作品。だから監督の思う「伝えたいこと」を受け取りやすくて、掴みやすいからこそ大半の人はそれを掴めたんじゃないかとは思う。

 ただ今回、一番大事なことはドキュメンタリーには監督の思った通りの感じたままのJO1しかいなくて、わたしらも見て感じた通りにしかそれを受け止められないということ。だから、そのままこの世の誰の意見も通さずにみるJO1の映像なんてそもそも存在せん。映せないし、見せられないし、見られない。
それは誰かがなにか感じた時点で、誰かから見た事実になってしまうから。

 だからこそ自分にとっての事実と照らし合わせて、監督の伝えたいことを掴めなくてもいいんですね。
「監督の伝えたいこと汲み取った→JO1すき」
「汲み取ってない→JO1好きじゃなかったのかもしれない」という簡単な方程式じゃなくて、どうしてそう思ったのかを考え抜いた上で自分の感想を持って良い。鑑賞中に全然泣かなかったけど色々考えてJO1大好きって思っていい。鑑賞中に号泣して色々考えてJO1好きって言えないかもって思ったっていい。
泣くのって結果であって、結論ではない。
それは作品を見た時と見た後の自分の行動を、ドキュメントとして答えを出してるから、どんな答えが出てもいい。

ドキュメンタリーは見た後が大事。
見る前の自分と見てる時の自分と見た後の自分を重ねて自分の答えを探す。
1時間でも、1秒でも自分の答えを考えるだけでドキュメンタリーはそうやって価値を持つ。

 そうやって楽しめたらいいと思う、ドキュメンタリーは。赤裸々に「これどうなん?」を言いづらい世界ではあるけど言ったって構わないし、言ったからって「=JO1のこと好きじゃない」なんてことにはならない。
もしかしたら初めてドキュメンタリー見るって人も居ると思う。
その時に例えば、「泣いた」「泣いてない」みたいな結果だけを基準に思い悩むことがないといいなと思う。

 だから見終わった後に最初のFで1pick思い出しても良いし、ツカメいい曲なんだけどちょっとしんどいな、フルは長いやんって思っても良い(それは私)
コンビニ歌ってる推しみて笑ってる反面、「こんなに歌えるんだからもっともっと頑張ってほしいめっちゃ悔しい」って思っても良いし(それも私)
いろいろ全部踏まえた上でJO1超好きだなってことを再確認しても良い(全部私)

全部OKなわけです!やったね!
どう思ったって不安に思うことはない、それがドキュメンタリーだよって少しでも伝わればいいな。
いっぱいみんな見に行くと思うから、少しでもドキュメンタリーである「未完成」を楽しんでほしいなと、ドキュメンタリーの端の端を齧ってた私は思うのです。


15.März.22