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今朝、反対列車に乗り込んだ

ピピピピ ピピピピ ピピピピ
一秒の狂いもなくいつもと同じアラーム音が部屋中に鳴り響く。
どうやら時計の針が6時30分を示したようだ。

『もう朝か』
昨日までの疲れがまだ取り切れていないが、刻一刻と出社する時間が迫ってきている。まだ水曜日、気分は憂鬱だ。
『会社に行きたくない』
こう思ったのはこれで何日連続だろうなんてカウントする気も失せるほど毎朝同じだ。しかしこうしてはいられないと重い体を無理やり起こす。
これはある会社員の日常の朝の一コマだ。

急いで身支度を整えて家を出ると、いつもすれ違う高校生が今日は反対側の歩道を歩いている。よし今日もオンタイムでここまで来ている。
梅の木の蕾が先週より膨らんできただろうか。春の訪れもどこからと聞こえてくる清々しい朝だ。

麻衣は新卒で入社して以来、大手IT企業に勤めてもうすぐ7年目になろうとしている。営業としてそれなりに結果も出せるようになってきた。大きなクライアントも担当させてもらい、今年の成績は好調だ。このまま頑張れば昇格出来るかもしれない、今がチャンスだ。今日も頑張るぞ。そう自分を鼓舞して駅の改札を通過する。

ホームに辿り着くと、今日もサラリーマンや制服を着た学生がいつもと変わらない様子で電車を待っている。どことなく全員がまだ水曜日なのかよと言いたげな顔をしているように見えた。

「まもなく3番線に品川方面行きの電車が参ります。危ないですので、黄色い線の内側までお下がり下さい。」
品川行の電車が到着するのとほぼ同時に反対側の電車も到着した。4番線、熱海行きの列車だ。
ほとんどの人が当たり前のように上りの品川方面の電車に乗車していく。車内は既に混みあっているが、慣れた様子で隙間に入っていく。
ここにいる大多数と同じように、麻衣も品川方面行の電車に乗って毎日通勤している。品川までは電車で30分。そこから歩いて5分のところが麻衣の職場だ。

その日、何故か麻衣は反対列車である熱海行きの電車に乗ることを選択した。自分でも気付かない無意識の領域での選択だった。気付いた時にはもう電車の扉は閉まり切った後だった。

はっとして我に返る。
『私は一体何をやっているんだろう、今日は大事な商談もある日だ。休む訳には行かない。次の駅で降りて急いで向かおう。』
電車乗り換えアプリを起動させると、今麻衣が乗っている列車は熱海に直行で向かっていることに気が付かされて愕然とする。会社にどう伝えればいいのか分からず仕方なく体調不良だと連絡する。

すると急に今日が有給となった。
社会人としてこれでいいんだろうかと最初こそ罪悪感でいっぱいになったが、景色が徐々に熱海に近づくにつれて心は晴れやかになっていった。

間もなく熱海に到着した。電車でそう遠くない距離なのに、来たのはいつぶりだろう。品川とは景色も空気も流れる時間の速度までが違っているように感じられる。
麻衣は商店街を散策してから海へ向かった。時間を忘れてぼーっと広い海をただ眺めた。

頭の中で色々な考えが過る。
社会人7年目、このまま今の会社で働き続けていいのだろうか。
彼氏と付き合ってもうすぐ2年。周りの結婚ラッシュに便乗するかのように、今の彼氏とこのまま結婚に向かっていいのだろうか。

振り返ってみると毎日を突っ走って今日まできた。忙しいことを言い訳にして自分の気持ちと向き合わずに、皆と同じ方向に向かっていれば安全だと思ってここまできた。
社内のキャリア面談の度に麻衣は何をしたいのか聞かれても、いつもまともな返答が出来ないでいた。皆と同じ方向、皆がいいと思っているものばかりに気を取られていているうちに、いつしか自分が本当に好きなことややりたいことが分からなくなっていた。

『本当の私はどうしたいんだろう。』
それが分からなくて他の誰かの考えに合わせすぎてしまっていたから、人生このままでいいのかという問いかけにも自信が持てていなかったんだなと気付けた。

きっと自分の人生は自分で作っていくものなんだ。
引かれたレールを踏み外さずに歩むことが人生だと思っていたから、どこか息苦しさを感じていたのかもしれない。案外、自分の心に素直に従った方が生きやすいのかもしれない。

自然とそんな風に思えたら、麻衣の心はいつぶりだか分からない程にスッキリしていた。ズル休みをしたことにあんなに罪悪感でいっぱいだった気持ちもどこかへ消えていた。
もしかすると今日麻衣を熱海へ連れてきたのは偶然の出来事ではなくて、麻衣の心の奥底の意思だったのかもしれない。

また人生に迷った時は熱海に来よう。
「よ~し!明日からも頑張るぞ」
ズル休みもたまには悪くないと海に沈む夕日を眺めながら麻衣は笑った。