見出し画像

Twitterを辞めることにしました

突然何を言い出すんだと思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、「もんぬ」は、2021年5月をもってTwitterを辞めることにしました。

なぜか。

一言で言うと、自分の好きな自分でいられなくなったからです。

具体的には、とか、こうなってしまった経緯や、凡人が『インフルエンサー』と呼ばれる数のフォロワーを抱えるまでの心境の変遷やら何やらを思いつくままに書いていこうと思うのですが、のっけから非常に長くなる気しかしません。が、こればかりは、読者の方の貴重な時間を奪ってしまう…等を考慮せず書きたいだけ書くと決めているので、読むと決めた方はお腹に力を入れて読み進めてください。笑

ちなみに、「もんぬ」っぽさはないかもしれません。あくまで中の人として書きます。

注意:Twitter大好き!Twitter最高!な人にとっては不快に感じる表現が多々あると思います。…と前置きしたので、それでも読む!という方は自己責任でお願いします。



その瞬間は、ある朝突然訪れた


私は基本的に毎日寝る直前までベッドでスマホをいじり、朝はアラームを消したら眠い目を擦りながらスマホを、Twitterをいじる人間だ。

その朝、3月のとある平日の朝も、いつもと同じようにTwitterを開いた。


よしよし、昨晩投下したツイートに一晩のうちにいいねもたくさんついているし、フォロワーも増えている。

順調、順調。

フォロワー31,500人まであと少し。


…あれ。

順調って、何が? "31,500人" に何の意味があるんだっけ…?

そういえば私、少し前に「フォロワー3万人まであと少し…!3万人いったら、数字を気にしてしまう私もさすがにフォロワーの数がどうとか今日は何人増えたとか気にならなくなるだろうな。それにしても"あと少しで〇万人"って時が一番伸びが悪いの不思議よね~神様は意地悪だ~」とか考えてなかったっけ?それが今、「あれっさっきは31,480人だったのに31,478人になってる、やだぁ~悲しい」なんて。


え、私、何してるんだろう??????


猛烈なくだらなさに襲われて、なんならちょっと吐き気がした。

病気だ。

自分が怖くなった。


こんな私は好きじゃない。全然、推せない。


その日はTwitterを開くのが怖くて、開かなかった。



私は何かの選択をするとき、「その選択をした自分を好きだと思えるか」を判断軸にしている。これは約8年前に浮気した時に確立された、自己肯定感が低くすぐネガティブに走る私が、それでもなんとか生きていくための決め事である。

※この浮気に関するnoteは別で書いているのでよかったらこちらもどうぞ。


私は注意深く生きていかないと、すぐ自分を好きでいられなくなってしまう。しかも更に都合の悪いことに、自分を好きでいられなくなると文字通り何もできなくなってしまう。

仕事も、家事も、趣味も人間関係も何もかも手がつけられなくなってしまい、投げ出すと言うよりも放置してそのまま時間とともに腐っていくのをぼんやり見ているような状態になってしまう。

そういう意味で非常に繊細だと思う。繊細というか壊れやすい。脆い。

でも社会人になってしまったから、繊細でも壊れやすくても何でも、何とか自分のお世話は自分でしないと。と思ってはいて、その結果「その選択をした自分を好きだと思えるか」を判断軸に据えて日々の生活を送っている。漠然と「最近の自分のことは好きかもなぁ」と思えるようになるためには、日々の一つ一つの選択をそのように意識して積み上げていく作業が必要だということを、私はもう経験として知っている。


そんな中で、Twitterに浸食されている自分を、気づけば全然好きだと思えなくなっていた。ということにこの日気づいてしまった。

そもそも「浸食されている」と感じたということは、もうとっくに楽しい趣味ではなくなっていたのである。


ツイートして1時間以内に200いいねがつかないツイートは不発。

1ヶ月に1,000人以上フォロワーが増えなかった月は反省。

今日私のフォローを外した人はどんな人たちだったんだろう。

あの人すごい勢いでフォロワー増えてるな…まぁ確かにこれは伸びるよね…いやいや気にしない気にしない…(気になる)

ぇぇえ、こんなツイートでもこんな伸びちゃうんだ、バカバカしいな。

あんな人が教祖みたいになれてしまうなんて、世も末…みんな金魚のフンじゃないの…自分の脳みそで考えてない人ってこんなにたくさんいるんだ。

あれ?この人、この間も同じようなことつぶやいてたよな?反応が良かったから味しめてもう一回投下したんだろうな。芸がないわ…

またこの型のツイートか。見飽きたわ。大して面白くもないし。


こんなことを思う人の心を「醜い」以外の言葉で形容できるだろうか?

しかも、このように数を気にしてしまったり時には他アカウントに嫉妬してしまったりすることも自分を好きでいられないと思った理由だが、このタイミングで、一気にそれまで見ないようにしていた「もんぬの中の人という私」の陰の姿をまざまざと自覚してしまった。


2020年4月に「もんぬ」というアカウントを始め、5月に「失敗オープン系」に方向性を定め、8月にバズって一気にフォロワーが増えて以来ずっと、優越感に浸り続けていたのである。


私っていわゆる「インフルエンサー」ってやつなんじゃない?

他の人には真似できないことを、やってのけちゃってるんじゃない?

実は私って、もしや、すごい人間だったのでは????


まるで自分が特別な存在であるかのように感じてしまっていた。


それは私がずっとずっと求めていたものだった。

物心ついた時からずっと、「何者か」になりたかった。

別に、歴史に名を残したいなんて思っちゃいなかったけど、それでも私は自分が自分である意味を、私が私に生まれなければいけなかった理由を、その必要性を何かの形で実感したかった。死ぬ時までに、私は生まれてよかった人間なんだと、自分の存在する価値を自分を認められるようになっていたかった。生まれた理由も生きる意味もわからないまま生き続けることは、私にとっては酷で、しんどいことだったから。

私に、私の生を認められたかった。私が許したかった。


で、

叶った気がしてしまっていた。

やっと、私は私を見つけた!くらいに思っていた。

才能に気づいた、才能に目覚めた、開花した。

どれも一時的にではあったが、しっくりきてしまっていた。


リプを送っていいねが返ってきたら「わぁい!見てもらえた!」と感じてしまうレベルの芸能人くらいに遠い存在に感じていた錚々たるインフルエンサーたちにフォローされ、リプでわいわいやり取りができるようになり、中には実際にお会いできた方もいて、そんな方々にフォロワーの伸びの速さやエンゲージメントの高さを褒められる度にみるみるいい気になった。

著名人でも私よりフォロワーが少ない人がいたりするのだが、そういう人を見る度になおさら調子に乗った。

ファンです!と言われたりもしたし、これはもう『信者』ってレベルなのではと思うくらいの熱いDMをいただくことも何度もあった。

PR案件もバカみたいに舞い込んできた。最初は「わ、これが俗に言うPR案件ってやつですね!?照」と思っていたのに、今では「またPR案件か」と0.3秒で削除するまでになった。人は有難みにすぐ鈍感になる。


それはまさに「私は特別でない存在だ」と思っていた頃の私が、「特別な存在はきっとこんな生活を送っているんだろう…!」と想像していたもの、そのものだった。


気づけば、悦に入る時間も深さも相当なものになっていて、だからここまでその愚かさも虚しさも見て見ぬふりをしていた。見たくなかった。見なくていいと思っていた。気持ちよかったし。


でも、直視してしまった。我に返ってしまった。


あぁ、本当に恥ずかしい人間だなぁ、私って。

わりと自分の悪いところはしっかり見つめて改善してきたと思っていたのに、まだこんなにも恥ずかしい人間だったのかぁ。

本当に恥ずかしいな。


夢から醒めた気分だった。恥ずかしい夢。多くのフォロワーを抱えたことのない人にとってはそれこそ夢のような話かもしれないが。


もう春が来るのに寒気がした。

ちょっと、泣きそうでもあった。




こんなはずじゃなかった


元々、Twitterを始めたのは、自分のことを好きになれずに苦しんでいる人が多いこの世の中で、少しでも私にできることは…と考えてのことだった。

これについては、自己紹介noteに過去の暗い話とともに記しています。

最初はそういう気持ちだったのに、気が付けば数字に囚われて、ウケのよさそうなツイートを考える日々になっていた。非常に情けない。


じゃあ初心に戻って、アカウントの方向性を仕切り直して…とも考えたが、これはこれで違った。Twitterの限界を感じていたことも事実だったから。


140字で、自分のことを好きになれずにいる人の何かを変えられるのか?

心を動かすことができるのか?

とてもそうは思えなかった。


人が変わるのは、習慣が変わった時。

習慣が変わるのは、行動が変わった時。

行動が変わるのは、心が動いた時。

じゃあ、心が動くのは?


何かの文章を読んで心が動くとしたら、それがしっかりと腑に落ちた場合だけだと私は思う。なんとなくかっこいい言葉でできた短い文章によって、行動が変わるほど心が動くことって、あるだろうか?ちなみに、私はほとんどない。

長ければいいというわけではもちろんないし、じゃあ140字じゃなくて何文字あれば足りる、みたいな話でもない。

ただ、140字という短い文章で誰かの心を動かせる力が私にはない、という確信だけが確かにある。

自分のことを好きになれずに苦しんでいる人が自分のことを少しでも好きになるという変化の助けになれないと確信したので、Twitterをやる意味が私にはないと判断した。やるなら、もっと、ちゃんと人を救い上げられるようなアプローチがいい。(なので、noteやVoicyはしばらく続けようと思います。これも模索しながらですが…)



ナメていた。

私が、誰の顔を思い浮かべるでもなく、ぽーんと宙に放った言葉が、誰かの役に立ったらいいな!なんて。

立たないよ。立つわけない。

一人一人と向き合ってプロがカウンセリングしたって、人を変えるのは容易なことではないのだから。


久しぶりに壮大な無力感に苛まれた。





これは私の問題である


私は思うのだが、単純に私が「こうなるべきではない人間だった」というだけのシンプルな話だ。影響力のようなものを持ってしまっても自分を見失わず、当初の目的のためにまっすぐいられて、ブレない。そんな人がそうなればいい。

あくまで、私に限っては『豚に真珠』だった。

(というか、真珠をもらった豚は、嬉しいのだろうか。猫は小判を欲しがるのだろうか。これらのことわざは「値打ちがわからない者に価値のあるものを与えても無駄だ」という意味だったと理解しているが、とりあえず嬉しいことは嬉しいのだろうか。とりあえず欲しがりはするのだろうか。少なくとも猫は、小判よりも自分を確実に幸せにしてくれるとわかっている "ちゃおちゅーる" とかを所望しそう…と考えると、その価値もわからず「とにかくたくさんフォロワーがほしい!」なんて思っていた私は猫や豚よりも愚かかもしれない。)


あんなに欲しかったのに手に入れてしまった瞬間に色あせて見えてしまった、という現象は恐らく多くの人が経験したことがあると思うが、今回の私は、色あせこそしなかったものの、手に入れたそれによって気づかぬうちに自分を内側から蝕まれていたパターンである。本来は手にすべきでないものを手にしてしまったといのか。『私は適合者じゃなかった』という感覚。

なんか、そういうアニメとか映画、ありそう。見たことあるかも。

『なんということをしてしまったのだ…この力は、おぬしが手にしてはいけないものだったのに…!』みたいな。ありそうありそう。



正直、もったいないと思わなくもない


とはいえ、せっかくここまでやってきたのにもったいないかも、という気持ちももちろんある。

たくさんの時間と労力を割いてきたし、メンタルの乱高下にも耐えてきたし、何よりTwitterでフォロワーが増えることのメリットを重々理解しているから。


著名な方とDMでやりとりさせてもらえたり、ぜひ一度お会いしたいなどと言ってもらえるなんて、想像すらしていなかった。

インフルエンサーの方たちに「仲間」と認識してもらえて、ランチや飲みに誘ってもらえることもあった。やっぱりそういう人たちは魅力的で、今までの私のコミュニティの外にある広くて深い世界を少し見ることができた。ああこんなに勢い良く自分の人生を推し進めている人っているんだな、と感動すらした。すごい人はすごい。やっぱりすごい。同時に、Twitter上では彼らはかなり芸能人っぽいというか、親近感など到底抱けない雰囲気を纏っているが(これは彼らの何らかの言動の結果ではなく、フォロワーが多いだけでそう見えてしまうという話)、実際に会うと皆さんちゃんと『人間』で、私は彼らの人間味にむしろ惹かれた。実際にお会いした方々のことを、毎回会う前よりずっと大好きになって帰路についた。

ほとんど受けなかったが、数少ない引き受けたPR案件でお小遣いを稼げたのも有難いことだった。中でもバチェラーデートというマッチングサービスのPR案件はかなり真剣にやらせていただいて、結果ガチで恋をするに至った。笑


音声配信をやってみたいという小さな興味も、Voicyのパーソナリティになるという形で盛大に叶った。やっぱりTwitterという140字の文字よりも伝えたいことがしっかり伝わるので、音声は良い。熱量やテンションを届けられるのも良い。クールビューティなアイコンのおかげで私のことを「強め・冷ためな女」と思っているかもしれない皆さんに、実際全くクールになんかなれない私の一部が、もひもひした声とまったりした話し方という形で伝えられている気がする。(よく、イメージと声のギャップが…と言われます笑)


もう把握しようとすらしていないくらい当たり前のように多方面で身バレしているが、彼ら彼女らにも「もんぬ」を楽しんでもらえているようで、それもまた嬉しい。後輩が実はフォロワーだった、ということが何度かあったが、私が「もんぬ」の中の人であると知ったとき、しばし唖然とした後に目をキラキラさせてどのツイートが好きか語ってくれたりして、ああいうのもまた幸せなことだなと思った。

きっと私が突然会社をクビになったとしても、「仕事ください」とつぶやけば何かしらのオファーは来るんだろう。

何かもっともらしい理由をつければ、お金を集めるようなこともできてしまうのかもしれない。


メーカーで営業をする立場として考えてみても、皆が一様にテレビを見て新聞を読む時代から、各々が自分の欲しい情報を取りに行くためにどの媒体を使うか選ぶ時代になったおかげで、「まず認知してもらえなければお話にならない」状態になり、どの商品もサービスも『拡散力』のある『インフルエンサー』という存在を何かしらの形で利用せざるを得なくなっている。

よって、フォロワーが多いことはそのまま『力』になるわけで、いかようにもお金に換えられるだろう。

何度、自社商品をPRしたいと思ったことか。笑



それでも、自分のために辞めようと決めました


フォロワーが多いこと、増やすこと、増えることは、間違いなく『いいこと』だと思う。

でも私には、「もんぬ」の中の人には、その力をうまく操縦しながらいい具合に自分自身を好きでいられるだけのバランス感覚がなかった。

割り切りきれなかった。

Twitterのフォロワーの多さという錯覚資産(あえて錯覚資産と呼ぶ)では、私は私を認めてあげることはできなかった。



ちなみに、突然投げ出すなんて無責任だ!と言いたくなった人はいるだろうか?

もしいたら、その人には真っ向から反抗したい。

責任って何でしょうか?

万が一私が誰かに何かを期待されていて、それを裏切ったから無責任だと言うならそれは期待した人の問題である。私は期待してくれなんて一度も頼んでいないので何の責任も負っていないし、私の問題ではない。

(もちろん、いつも楽しく見ています!もんぬさんの発信好きです!と言われるのは純粋に嬉しかったです。こんな私でも文字で誰かを楽しませることや心をほんの少しでも動かすことができるんだな、と思えたから。今まで皆さんからいただいた賞賛や感謝や激励の言葉は無事、私の養分に、活力の源になっていました。DMも質問箱も、全部読んでいます。「もんぬ」のアカウントは消さないので、今後いただくものも全て読みます。)



真面目なインフルエンサーが多いと感じる。

ファンの皆さんをがっかりさせてしまってごめんなさい、と謝る。

そんな見返りを求める人はファンではない。

何か不祥事を起こしたなら、それについてのみ謝ったらいい。



少し脱線するが、ファンと信者とアンチについて考えることがたまにある。私の中では、「ファンはアンチにはならない。でも信者はアンチにいとも簡単にひっくり返る」という区分けをなんとなくしている。私の「信者」の定義は『神を崇拝するかのように誰かを神格化して盲信している人のこと、その神の言うことなすこと全て思考停止して賛同してしまう人のこと』といったところなのだが、思考停止しているくせに地雷は抱えているというのが彼ら彼女らの厄介なところだと思う。つまり、その地雷に神が触れてしまうと「裏切られました」「信じていたのに」などと言い出して熱量の高いアンチに一気に転向する。アンチに転向した元信者の執拗さには私も驚いた。なんとかして個人情報をあぶり出そうとしたり、あちこちで「あの人に騙されちゃダメ!」と言って回っていたり。「ずっと好きだったのに、こんなふうに裏切られてつらい」と被害者ヅラしてみたり。どれだけ暇で、つまらない人生なのだろう。かわいそうになる。ろくな死に方をしないだろう。幸い私には信者もアンチもいないが、他のフォロワーの多い方の様子を見ていると「あらあら…」と思うことが度々ある。

私にも『私はこの人のいわゆるファンだな』と思える素敵な方が何人もいるが、彼ら彼女らの意見を何も考えずに鵜呑みにすることはないし、「ん?」と思う時はいいねをしないだけ。ファンになるきっかけになったコアな考え方がもし変わってしまったのだなと感じても、静かに離れるか、その変化ごと楽しませてもらったり、応援したり。この人にはこう在ってほしい、とか、そんな私の意向はない。何も期待をしていない。こちらは、その人の発しているものをありがたく享受させていただいているだけなので。これが私の思う「ファン」である。決してアンチにはなりようがない。

更に線を脱していくが、『愛憎』という言葉がある。私はこれこそまさにアンチに転向してしまう信者が持つものだと思う。そして、愛憎の『愛』は『愛』ではない。その『愛』は『自己愛』でしかない。あくまで私なりの定義だが、自分を介在させない世界であっても相手の幸せを願えること、それが愛だと思うから。自分がそばにいられなくても、自分の意見が何も反映されなくても、それでも相手が幸せであってほしい。在りたいように在ってほしい。そう思えるのが愛だと思うので、愛憎という言葉は少し前から何か違う表現に変えてほしいなと思っていたほど。要は、信者の盲目な愛は『愛』ではない、ということが言いたかった。


アンチって、クソリプって、やってる方は気楽なものかもしれないけど、刺される方は想像を絶するダメージを負うって、知ってる?

日常生活では滅多に言われることのない、鋭利で攻撃的な言葉を浴びる人の気持ち、想像したことある?

小さい石ころをぽんって投げてるくらいのもんだと思ってるかもしれないけど、『進撃の巨人』に出てくる獣の巨人の投石が人間の身体を貫通していとも簡単に殺してしまうように、アンチ1つで心が死んでしまうってこと、全然あるんだよ。

心を殺すのが罪に問われないのって不思議だよね。

身体の傷はいつか消えるものが多いけど、心の傷って深いものは一生消えないし何度でも復活するのにね。

よくあんな汚らしい言葉を人にぶつけられるもんだと思うわ。

顔が見てみたいね。きっと『そういう顔』をしてるんでしょうね。




最後に心からのお礼と、今の夢


ということで、私は私のために、私の好きな私でいるために、Twitterの「もんぬ」を辞めます。(念のため書いておきますが、noteの構成上アンチの話が後半に来てしまったけど、アンチやクソリプが原因ではないです。そういう人は見つけ次第容赦なく即ミュートしているので、私のタイムラインはだいぶ前から平和そのものでした。)

Twitterで知ることができた大好きな人たちの活躍は、これからもフォロワー0の鍵垢からこっそり見守らせていただきます。当分はnoteもVoicyも続けるので、よかったら遊びに来てください。あ、noteの更新のお知らせなんかはこれからもTwitterでさせていただくかもしれません。まだ豊胸&脂肪吸引noteや整形noteのアップデートも控えているし。



あー、楽しかった。

長い人生の中で、貴重な、いい経験になった。

学びの多い、派手な1年だった。


そして、夢もできた。

カウンセラーになりたい、と思っている。

ビジネスマンカウンセラーに。

自身もビジネスマンとして現場に居続け、その肌感覚を常に最新の状態にアップデートしながら、カウンセラーとしても活動したい。

ただの会社員なので長い道のりになると思うし、実現可能性がどれほどかもまだよくわかっていないが、私はやっぱり一人一人の人と向き合って、しっかり救い上げたい。

だって、みんなよく頑張っているもの。働いて、お金を稼ぐって、生きていくって、そう簡単なことじゃない。みんな本当によく頑張ってる。で、週の大半を働いて過ごすんだから、できるだけ気持ちよく働きたいよね。綺麗ごとに聞こえてしまうのは百も承知だけど、つらい気持ちを抱えながら働いている人がいたら、助けたい。救わなきゃいけない。放っておいちゃいけない。本当にそう思うんだよ。


それから、あわよくば、未来は明るいと、若者に思ってほしい。

何のために勉強するんだろう、なんで自分は生まれてきたんだろう、大人になって毎日あくせく働くのなんてちっとも楽しくなさそう…と今の人生にポジティブになれないばかりか、自分のその先の人生に期待できない・期待していない若者がたくさんいると知ったからこそ、安心しろ!いくらでも人生は楽しくなるぞ!もしつらくなったら私んとこに来い!と伝えたい。

そんなことができたら、私にも生まれた意味があったと思えそうなものである。


ここに書くのはちょっと恥ずかしかったですが、自分を鼓舞する意味で書きました。

頑張ります。



今まで、「もんぬ」の発信を見守ってくださった皆様、本当にありがとうございました。あたたかいフォロワーの皆様に支えられて、好き勝手やらせてもらいました。励ましていただいたり、慰めていただいたり、アドバイスをくださったり、共感してくださったり、拡散してくださったり、褒めてくださったり。(最近は全てのコメントをお返しすることができず、申し訳なかったです。)見ての通りかなり不完全な人間ですが、皆様がかわいがってくださったおかげで、1年間で少し人間として大きくなれた気がしています。

Twitter、やってよかったです。

本当にありがとうございました。心の底からお礼を申し上げます。


また、どこかで!!


2021/5/16 もんぬ


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?