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3分間
いつもの3分間という、毎朝訪れる、光と私と無の時間帯について、とても長い文章を書いたのだけれど、途中で、こんなものを書いて、いったい誰が読んでなんになるのか、私というものが捉えている感覚について書き記したところで、目の前がアルプス山脈になるわけでも無かろうに…と、思い直して、下書きのまま放置している。
いずれ気が向いたら、また執筆しようかとも思う。
そして、気がついたら、今年ももう5日も経ってしまっている。
時間というものは、果たして本当に平等なのだろうか?
わたしは何処かで選択を間違えてしまったのだろうか。
いつも、そんなことを思う。
間違えたとして、いったい、どこの、どのタイミングで、なにを間違えたというのだろうか?
間違えた、というこの漠然とした不安のようなものは、足のつかない暗い濁った海の、あの恐怖感とほんの少しだけ似ているものがある。
しかしながら、それは、波がとても制御できぬほどにうねり、わたしを拐おうとしてくるというわたしのどうにも抗えない無力感からくるものでもある。
これは、実際に海で波に揺られたものならば容易に想像し共感できることだが、その波は、人間というものに容赦なく地球の深部まで連れていこうとする力を、いとも容易く発揮してくる。
しかしそれは、「入り口」であるから、でもある。
入り口からしばらく進むと、拓けたフロアに出るだろう。
そのフロアにて、我々を待ち構えているのは、いったいなんであろうか?
雄大なひろがりを見せる美しい世界か、
神秘に織り成される暗黒の生命歓喜か、
絶望と虚無が蠢く漆黒の辛辣な世界か、
どこに、辿り着こうとも、我々は、生きて戻ったときに、ああ、地に足がついているな、などと「肉体」と大地の存在に感謝なぞをし始める。それから、感謝できるその心を持ち合わせていることが素晴らしいのだよ、などとわかりきった使い回されたお決まりのセリフしか言い合う事のできない下等生物なんだな、と理解するのである。
つまり、間違えているのは、間違えたと思っていることを間違えているのだ。
これは、間違いない。
いつもありがとうございます(о´∀`о)💕これからもよろしくお願いします🌈✨🙏