「美しい」とは


夏の入り口、梅雨。
雨がほぼ毎日降り、太陽の出番はめっきりとなくなる。
今年は例年より大幅に早い梅雨明けとなったが、
今現在、空気は重く夏の始まりは先延ばしとなっている。

私は梅雨入り前の空と、今日の空。
2度「美しさ」にとらわれた。
あまりにも自然が作るには不自然で、
だからこそ自然でもある入道雲の造形に心を惹かれた。

「美しさ」とは、造形美、であるのか。

美しさについての言及、もとい感じ方は人の数だけあるが、つまるところ私はどこに対して心が躍ってしまうのか。

自然というものは素晴らしい。
まるでそこにあることが当然かのように。
そこにあるということ自体が自然である、と表現されるように。
それ以外の形を保つことが許されていない、完璧であることが当たり前の世界で、さもそれが何一つ不自然ではなく私たちの生活に溶け込んでいるように。
一見完璧とは程遠いようなあの雲も、星も、大気中の空気や私たちの体の構造までもが完璧でそうあることが当然かのようにここに存在している。

自然が作り出す自然というひと言だけでは表せられないような造形に対しては、疑うことがないほどの「美しさ」を感じてしまうが、果たしてそれだけであるのだろうか。

SNSでとある写真を見たことがある。
それは、完璧の形からは外れてしまったが故に見出される、義足という新たな自然の造形美が写っていた。
それはあまりにも美しく、強く、儚く、神々しささえも感じられるような圧倒的な「美しさ」だった。

思い返すとこのようなことは実は生活の中に密かに息をしている。
正義ではない美しさや、醜い感情、不協和音と言われているものが美しさに変化したり、崩れゆく、壊れゆくものに対して、その自然のルールの崩壊を目の前にして初めて美しさを見出したり。

私たち、いや私自身の「美しさ」はとても不安定だ。
ある日それはそうであったのに、次の日ではそうではなくなっていて、時代が巡るスピードと共にその立場はいくらでも、何度でも入れ替わりあう。
絶対的なもの、というのは存在しないとさえ感じてしまう。

「美しさ」を決定付けるものは見当たらないが、
その不安定さ、不確定さそのものも
様々なものに対する「美しさ」を見出している。

こんな私はまた日常を「美しさ」で色付け
日々を散漫と過ごしていくことになるだろう。

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