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雑文 #30

雑文も30回目。

村上春樹氏が『雑文集』という書物を出していた。
私はマニアを自負しているくせに出版されたのを知らなくて、その本を9月に京都の古本屋で見つけてよろこび勇んで買った。
ちなみにそれは結局まだ読んでいないし、買ったのは古本屋というか、古レコード屋さんであり古着屋さんでもありくるりのファンファンちゃんが勧めていたお店で偶然通りかかり、お店のひととおしゃべりして楽しかったし良い店だったしその近くには梶井基次郎が檸檬を買った八百屋さんと丸善があってなんだかとても興奮したし、えーと、ほんとうの村上春樹ファンは自分を「ハルキスト」とは絶対言わないはずです。

てなことを言いたかったわけではもちろんなく、つまりこういうとっ散らかった雑文を書き散らすことは私には必要なんだと思う。

ここのところ更新の頻度がとみに上がったのにはやはり理由があるけど、まぁめんどくさいのでここには書けない。

灯りは自然光に近いものがいい。
数年後にLEDを義務づけ白熱灯と蛍光灯の生産に罰則を設ける制度を作るみたいな記事を読んだがあまりにも横暴すぎる。

ピカーッと一気に明るみに出るより、ピアノからクレッシェンドに、もしくはところどころぱっぱっと思わせぶりに照らしながら、だんだんと全体像や焦点が明らかになっていくほうがいい。

思いは複雑なものであり、それを一見簡単な言葉や態度で表しながら、辛抱強く正直に、ときには矛盾もはらんだ表現を交えつつ、本当に真摯に受け止めたひとだけが何となくわかる、みたいなことがいい。

でも世の中浅くてわかりやすいものが大多数に受け入れられている(と思う)。

上に書いたような感じのことを、さも自分が気がついた、もしくは自分の敬愛するミュージシャンが特別実践してる、みたいな文章を読んだがそういうことは私はずっと村上春樹やくるりに教えられ自分の中で育んできたことなんだけどなぁと思った。
だけど書いてあることはよくわかった。
わざわざこの雑文よりずっと長く具体的な文章で説明することも私には必要ないのだけれど、そうしなきゃわからない人が世の大半なのだろうなぁと気づかされた。

繊細さは日本人の美徳だと信じるけれど、何だかいろいろ雑になっているよなぁと雑文を書きながら思っている。

先ほど挙げたライターの人(?)の感じた混沌は、私の感じる混沌よりかなりシンプルに思えた。
人がそんなに単純なわきゃない。当たり前だ。単純に考えたほうが楽だから無理にそうしようとしているまでだ。
そしてそのライターの人と共通して強く感じるのは、だからと言って複雑の深淵に陥らないほうがいい。
その前に行動するのだ。
自分にできることをやるのだ。
その筆者は、大したことを書いていないながら(失礼ですね、すみません私見です)、きちんと自分でやるべきことをやっている。公の場で表現している。

そこが私より全然偉いと思った。


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