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雑文 #139

私はSNSが好きだがSNSが好きすぎて疲れてきた。

先日、SNSをまったくやらない親友に、ツイッターについて話していた。
そうしたら、もやもやとしていたものがちょっとカタチになったかのように、本当にイヤになってきた。
その後、このようなことを考えた。

私のツイッターには前期・中期・後期がある。


前期。ほどほどに楽しかった日々。
私はかなり早くからツイッターに登録していた。
mixiの日記のコメント欄にどんどん独り言を書き込んでしまう癖のあった私にとって、「つぶやき」は格好の手段だった。
この頃私はひどく暇だった。
誰が見ていても、見ていなくてもよかった。好きなことをつぶやけた。
ただし、知り合いに見られたら恥ずかしいので「くるりのマニアであること」は隠してた。
フォロワーはほとんど元からの知り合いだけだった。
くるり要素以外の私の内面がそこにあったと思う。
気が向いたら、という感じでさほど頻繁に使っていたわけではなく、いい距離感だったと思う。

中期。ツイッター黄金期。楽しかった日々。
ついにくるりのメンバーがツイッターに現れた!
ということで私はどっぷりはまるようになった。
岸田さんや佐藤さん、ふぁんちゃんやその頃まだメンバーだった省念さんに、感想や要望を見てもらえる!ともすれば返事ももらえる!夢のよう。
メンバーの表には出てこない別の姿が見られる…特に岸田くん。ツイッター好きみたい。
最初はドキドキだったがそのうち慣れて、ガンガンリプライするようになった。やり過ぎだと反省することも。最もうれしかったのは、ついリプライ連投してしまい「何度もごめんなさい」と独り言をつぶやいたらそこに岸田くんが「ありがとうございます!」と返事をくれたこと。イヤじゃないんだ。わざわざ私のとこ覗いてくれたんだ。いつもごめんね。最近は全然ないけど岸田くんには直接合計10回くらいお返事をもらった。
それとともに、フォロワーが急増。
ツイッター上で知り合った人とどれだけ楽しい時間を過ごしたか。実際に会ってみた人も多数。友だちが増えたのは感謝している。
出会いがあり別れがあった。うれしいハプニングもトラブルもあった。
くるりの要素さえもう隠すことなく、自分の好きなことをつぶやいていた私は、自由で解放されていたがだんだんネットの闇にも触れることになる。
具体的には、長くなるので割愛するが、短い文章ならではの誤解は怖い。
顔が見えないことでの悪意を投げ出すことへの手軽さは怖い。
2011年3月の震災後私は怒っていた。
楽しいこともつらいことも愉快なことも不愉快なことも全部つぶやく私は間違っているのか?

後期。いま現在。私はツイッターがイヤになっている。
なぜなら、楽しいことつらいこと、愉快なこと不愉快なこと、全部はつぶやけなくなっちゃったからだ。
私はくるり好きのお気楽なおねえさんを演じてる。
違う。以前はつらいときにはつらいって言えてたはず。イラッとする人のことはうまく皮肉っていられたはず。おかしいと思うことへの批判も堂々とできてたはず。
同調とポジティブさしかない自分なんてウソだ。出てるのは自分の上澄みの一割程度だ。
なんで前中期みたいにできなくなったのだろう。フォロワーが増えたから?それもある。トラブルで懲りたから?それもある。でも決定的なところがよくわからない。
自分の底を探っていくと、嫌われたくない、というよりは、面倒を避けたい、というのが強い。
つまんない。あーつまんない。虚飾を楽しめる人もいるんだろうけど、私は苦しい。

やめちゃえば?とあなたは言うかもしれない。
でも、くるりがいることと、その他含めて私の文化的活動の情報源としてこんなに良いSNSはない。
そして、やっている以上見るだけに留められないのが私だ。
インスタグラムやフェイスブックや、このnoteように、適当に負担にならない程度の距離感で付き合えない。
かつて黄金期に一度ズブズブの関係に陥っちゃったからだろうか。
そこであったいい出会いをいまもまた夢みているのだろうか。

ああもうツイッター、やめたい。
SNS疲れた。
何もかも放り出して旅に出たいんだ。


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