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忘れられないこと

私ねぇ、忘れられない人がいるんです。
男性?   初恋の人?


いえいえ違います😁

かなりお若い時の写真です
山田五十鈴さんです

そう、これならば記憶に新しいですかね~?
記憶に新しいといっても亡くなってからもう9年も経ちます。お若い方はご存知ないかもしれませんので、ここでご紹介させて下さい。

生涯を芸一筋に生きた大女優
戦前戦後、そして平成を通して映画や舞台で様々な女を艶やかに演じ、女優として初めて文化勲章を受賞
大正6年、新派の俳優山田九州男の娘として大阪で生まれた。「芸は身を助ける」の信念を持つ母親の影響で幼い頃より様々の芸事を習い10歳で「清元」の名取となった。
13歳で映画デビュー。大スター大河内伝次郎の相手役を務めた。その後溝口健二監督の「浪華悲歌」や黒澤明監督の「蜘蛛巣城」など映 画史に残る名作に出演し様々な賞を獲得、映画界を代表する大女優となった。
昭和30年頃からは舞台でも活躍。昭和49年初演の「たぬき」では浮世節や三味線の「曲弾」など寄席芸に真っ向から挑戦し芸術祭大賞を受賞。
数々の名舞台は「五十鈴十種」と名付けられ、度々上演され「天才」「芸の虫」といわれ生涯を芸一筋に生きた。 

NHK人物錄より



そうです。昭和平成の大女優  山田五十鈴さんです。

私はあの時帝劇でアルバイトをしていました。
役者さんに衣裳を着せる仕事です。
舞台での着付けは全面が役者さん、後ろが我々衣裳部の責任です。ですので我々は背中のシワを綺麗にしたり、帯を結んだり・・・です。

着物は好きですので楽しい仕事でしたが東宝の衣裳部の方達からは私達アルバイト3人はいじめられましたよ~😂
私達が仕事している時、わざわざ後ろに座ってじ~っとみていたり嫌み言われたり、果ては指図される度に「はい」と返事をしたことさえ「その返事が我々をバカにしている」といわれ、挙げ句「弁当を持ってこい」とまで言われましたが、そればかりは断固拒否しました。
お昼休みの1時間が大事な息抜きの時間でした。 

他にもたった一人松竹の女優さんがいたのですが、着物の小物を隠されたり、ちょっと考えればわかるのにお太鼓(帯)の柄を逆さまのまま舞台に出したりしてましたよ😵
なんか陰険で怖い人達だな~と❗

そんな毎日でも私にはとてもワクワクする時間がありました。
舞台の袖には役者さんが着替るのに使ったりする小部屋(私は「出待ち」と覚えたのですが違うようです)があります。
私は藤田弓子さんの担当でした。

藤田弓子さんです。大変な酒豪らしいです。

藤田さんの着付け時間より少し早く小部屋に降ります。

なぜか、ナゼか?  エヘッ❤️


ちょっと早く行くとその部屋のソファーに片岡仁左衛門さんが寝ているからです。当時は本名の孝夫さんでした(年がバレる)

片岡仁左衛門さん ハンサムでしょ❤️
かっこいいでしょ❤️

ソファーで寝ていらっしゃる孝夫さんに「おはようございます」とご挨拶すると「おはよう」と返されて出て行かれます。
それだけ、それだけで心ときめき❤️嬉しさいっぱい🥰
そんな訳でいじめられても毎日ワクワクしながら仕事にいきました。

そんな事を繰り返しているある日、通路の前方から山田五十鈴さんが歩いてきました。

一瞬  緊張・・・・・😶

だけど、だけど、なんとなんと山田さんは名もない一介のアルバイトの私に会釈して下さいました。それも私より先にご挨拶して下さったのです。

わっわっわっ、それは何というか?
晴天の霹靂(((((((・・;)

うわ~っ、凄い方だなー❗
ご自分1人では幕が開かないことをちゃんと考えていて下さっていて私のようなアルバイトまで大事にして下さると感激しました。

もう一度驚いたことがありました。
ある日衣裳部屋に楽屋着の浴衣姿の女性が根岸衣裳さんと話していました。その女性は後姿だったため「あの人誰?」と側にいる方に訊ねたら「やだっ、山田先生よ」と教えられました。根岸衣裳さんは山田さんのお気に入りだそうです。

へぇ~ちょっと疲れていそう、悪くいうとどこかの「おばあさん」て感じでした。後で聞いたらこの公演中は体調思わしくなく点滴を打ちながらのお舞台だったそうです。

公演中はスピーカーで舞台の音が楽屋にも流れています。役者さんやスタッフはその音を自分なりのきっかけと捉え一階に降ります。
ある時私はそのきっかけに気付くのが遅くなり、慌ててエレベーターに行きボタンを押しました。
エレベーターを待つ時間ももどかしく…………………、

あっ、きましたきました😂
到着してホッとしまし・・・……………。

ドアが開いた瞬間( ̄□ ̄;)!!

エレベーターの中は混んでいて前列真ん中に山田五十鈴さんがいらっしゃいました。
まぁ、驚いたのなんのってあのよれよれ(失礼)だった方が衣裳をつけると毅然として神々しく光輝いていたのです。その凄まじいまでの舞台への思いに私は圧倒され呑み込まれ、エレベーターに乗れませんでした。体が動かなかったのです。
エレベーターの扉がしまってハッと我に返り階段をかけおり、どうにか間に合いました。それ以来山田五十鈴さんをとても尊敬しています。

そして忘れ得ぬ人、忘れられないこととなりました。

最後までお読み下さって有り難うございます。
皆様の忘れ得ぬ人、忘れられないこともお聞かせくださいませ🙇

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