私のこと 003

高校生になった私は、一気に体調を崩した。

自宅でも過呼吸になり、学校の前で足がすくみ動けなくなったり、自分の身体と自分の意志が分離されたような生活を送ることになる。それでもどうにか教室と保健室を往復しながら学校には行っていたが、ある日、保健室へ向かう途中に倒れた。

高校1年生の教室と保健室は1番距離が遠い。誰にも気づかれず、階段の踊り場で倒れていた私を見つけてくれた先生の計らいで、次の日から別室登校となった。

授業を中断し、先生方や同級生にも迷惑をかけていた生活から、少し解放され、なんとなく気持ちが軽くなった。

しかし、完全に体調がよくなることはなかった。手足の指先はずっと冷たく、胸の奥の管にずっと何かが詰まっているような感覚があり、息をするだけでもそれは痛んだ。学校にいても、家にいても、それはずっと同じだった。

身近な人たちは、私を心配するあまり、私を甘やかしてはいけないと、厳しく接してくれていた。学校の先生からは「なまけ病」と言われていた。それが当時の私には耐えられなかったのだ。

そんな中、たまに体調が良くなる瞬間があった。それは私を心配してくれていた学校外の友人と遊んでいる時だ。

私は、幼いころから母親に連れられ色々なコミュニティーに参加していた。地元のお祭りの踊り連、自宅を施工してくれた建築チーム。そこには私の居場所があるように感じた。自分を認めてくれて、そこにいてもいいという感覚。その感覚を取り戻した私は、この生活から抜け出せそうなわずかな希望を見つけた気がした。

そんな不安定な高校1年生を過ごす中で、いろいろな経験をした。

睡眠薬の意図的過剰摂取で、目が覚めたら病院だったこともある。世の不登校生徒を立ち直らせた教育者の本を読んだり、うつのこと、自分のメンタルと向き合う方法を調べたり、改善するための自分なりの努力をした。

そこで見つけた改善策は、今の状況から逃げ出すということ。苦しいなら逃げてもいい、狭いコミュニティーにこだわることはない。

私は転校を考えた。母に相談し、ここなら県内転校も認めてくれるという学校も見つけ、見学へも行った。しかし、母には転校を認めてもらえなかった。

そこから、また落ちみ、3学期を迎えた。

あと3ヶ月、あと3ヶ月経ったら2年生になる。ずっとこのままではいけない。打開策を見つけなくては。

そこで私は学校の勉強から目を逸らすことにした。

私は和菓子屋さんになる。その目標だけを見据えて動こう。

大学で経営の勉強をするか、職人になるための勉強をするか。

私は一刻も早く、職人になりたかった。大学生の4年という期間は長すぎる。職人になるための技術は、いざ就職してからしか身に着けられない。だったら高校生の今はそれに向けて必要な知識を叩き込めるだけ叩き込もう。

私の同級生で、漢検、英検の試験を受験している子がいた。よし、私も何か資格試験を受けよう。

近くの本屋さんへ行き、資格のコーナーを見た。興味が無いことの勉強は苦痛だとよく知っていた私は、これならいけそうだという資格を見つけた。「食生活アドバイザー2級」だ。

そこから資格試験の勉強を始め、徐々に体調が回復してきた。

高校2年生になったら、毎日ちゃんと学校へ行こう。その目標の元、勉強を頑張った。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?