フラッシュバックと祈り
ここでの話は誰かに届けるぞ、という意気込みよりかは私の内面で浮かんだ思いを言葉にすることで整理して客観的に受け止める、みたいなカウンセリングの要素があると思っている。そんな独り言みたいなnoteを読んでくださるならば、やっぱりそれは嬉しい。今年もありがとうございます!
今回は地震とフラッシュバックについて
昨今のニュースは胸が痛い。能登の地震。あの大地震が起こった瞬間、わたしは初詣を諦めとぼとぼと夫の富山の実家に帰る時だった。神社には前日大雨で1日の午後に参拝しよう、という人が溢れかえっていた。
横断歩道を待っている時に、身の危険、というのがこういうことかと実感する大揺れだった。ただ、自宅は花瓶が落ちたにとどまり、困ったことと言えば東日本の震災を教訓に次の日のスーパーで水が買えなかったことくらい。恵まれた。
フラッシュバック
ニュースやSNSを見れば家族を亡くした人や跡形もなく途方に暮れる人の姿が映る。
フラッシュバックというとなんだか大げさだが、やはり過去のことが蘇る。息をせずただ冷たく横たわる兄や母が死ぬ直前の荒い呼吸。突如と目の前に現れては消える残像のようなもの。積極的に思い出そうとせずとも、浮かんでしまうのだ。
過去信じられないショックな出来事にあった人はきっと同じような体験をしているんじゃないかと思う。悲観しているのではなく抗えない、生理現象というのだろうか。
普段は金魚すくいのすくい紙のようにしっかり膜を張っているのに、ふとした拍子に、何か悲しいニュースに触れてしまうと即座に、穴が開く。薄くて強い膜が張っている。
あなたを守るのはあなただ
と人に言われるまでもなく、すでにあなたはあなたを守っている。そしてあなたが同じように痛みを背負はなくていい。悲しい過去の情景と今の非情を重ねて絶望しなくていい。悲しだ分だけ人は優しくなれるなんて思はなくていい。そのままでいい。過去の悲しみを回収して次につながる成長物語にしなくていい。それはそれ、あなたはあなた。
わたしには想像もできぬ苦しみだ。わたしも他者に委ねない。人には人の、自分には自分の。人と自分の体験も感情もまったく別物なのだ。それを胸に、過去を重ねずに、想いを馳せる。ただ馳せ祈る。
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