見出し画像

坂本龍一トリビュート展

日付:2024年3月9日
場所:NTTインターコミュニケーション・センター [ICC]

坂本龍一氏が亡くなってから一年と三日、彼の演奏する『Perspective』を聴きながらこの記事を書いている。

この曲は、彼の作品で一番好きというよりも、私が今まで楽しんできた全ての曲の中でもトップ10に入る。諦観の向こう側で得られる心地よい納得が雲間からすっと差し込んできた天使の梯子を通して訪れる、そんなメロディと歌詞にどれだけ癒されてきただろう。歌は世につれ、世は歌につれ、なんていう言葉があるが、私にとってその歌の一つがまさにこの『Perspective』である。

坂本龍一氏が実際にはどんな人間だったのか、私は知らない。書物やネットで氏に関する様々な情報を目にしたが、作品と作者を切り離して考える私にとってはどうでもいい。そもそも作品は、素人の私が知ったふうな気持ちを書くのは僭越すぎるけれど、それでも書くと、「作者ですら想像できなかった地点から解き放たれた何か」ほど良い。創作者は、そのイマジネーションという行為を通してイタコのように、生まれた作品自身の意思を世に伝える伝達道具にすぎない。作品自体にとりつかれたイタコ状態ではない時間における作者の言動を、私は重視しない。

2021年に東京都現代美術館でひらかれた「ライゾマティクス展」以外でも、何度か真鍋大度氏の作品を目にしている。面白そうな作品を鑑賞するばかりで (世間様に評価されるような) 創作物を何も生み出していない私に生きている意味はあるのだろうか。そんな気分になってくる。

昨年、お気に入りの文芸誌に応募して、予選を通らずに落ちた。予選を通っていれば再応募してもよい、という条件つきで創作行為を再開していたのでその文芸誌の新人賞には永遠に応募できない。羽がなければ空を飛ぶことはできないように、悲しいけど、能力がない者が目指してよい世界ではない。狼は生きろ、豚は死ね、である。

昔、tvk (テレビ神奈川) に「ミュートマ」という番組があった。現在では「音楽缶」という番組がそれに近い。そのミュートマ時代は、私の記憶は定かではないが、あの「イカ天」と時期が重なっていたように思う。いったいどれほどの「プロ」ミュージシャン志望者たちが一瞬テレビに採り上げられては消えていっただろうか。坂本龍一氏のようになれなかった彼らは、報われなかったのだろうか。無価値なのだろうか。負けなのだろうか。そして私は、誰も読まないこんな文章を書いて、何の意味があるのか。

ジョジョの岸辺露伴先生はこう言っている:
「ぼくは『読んでもらうため』にマンガを描いている!
『読んでもらうため』
ただそれだけのためだ。
単純なただひとつの理由だがそれ以外はどうでもいいのだ!」

私も同じ気持ち。
しかし、プロではない以上、読者は書き手の「私のみ」でよい。
あの世の坂本龍一氏に読んでもらいたい、などという贅沢は望まない。
プロのミュージシャンに読まれるべき文章は、プロの書き手であるべきだから。辛いけれど、プロとアマチュアの間には厳然たる差が存在する。ゆえに、心に響くのだろう、プロの作品たちは。

文字を読み、書く、私にとっては身近な行為のずっと先、手の届かないほど遠くにある世界、そんな Perspective.

おわり🍀

https://www.ntticc.or.jp/ja/exhibitions/2023/tribute-to-ryuichi-sakamoto-music-art-media/