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L愛ca

落合陽一写真展「晴れときどきライカ」

場所:ライカギャラリー東京
日付:2023. 10. 11 (水曜日)
見出し画像はパンフレットの表紙から。

ドイツ語を少しばかり知っているので「あい」と発音する ei の部分を「愛」に変えてみた。X やグーグルで「L愛ca ライカ」で検索したらヒットしなかったので、この記事のタイトルにした。もし既出だったら使わなかった。シャクなので。誰かがとっくに思いついているレベル (ベタ) なのは承知している。

Herzlichen Glückwunsch (心から おめでとう) というドイツ語がある。
X の投稿文字数節約のために ❤lichen と記されたりする。
インターネットの登場前からそのようなハートマークとの組み合わせ表記は存在していたので、珍しくはない。とはいえ、「L愛ca」の文字が私の頭に浮かんだ時、そんな表記のことは忘れていた。きっと無意識が意識にオススメしたのだろう。

二階にあったディスプレイ。
撮影する前に、上の画像のように映すことができるな、と感じた。
その通りになったので載せる。

展示室に飾られたすべての写真、その題名とともに QR コードが表示してあって、読み込むとその作品を基にした映像を観賞できる。私はすべての映像をスマホでチェックした。

ネガポジ逆転からの、「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」。

いや、駄目だ。わかったふうな感想を述べてはいけない。そういうタイプの作品が存在する。落合陽一氏のそれは特にそうであるように感じる。鑑賞者の多くが何か述べたくなる気持ちはわかるし、述べずにいられなくなるのは良い作品の証拠だとしても、黙っているか、トラ彦さん可愛い、とだけ言っておけばいい。どうしても作品を理解したような言葉を何か発したいのならば、少なくともライカのユーザーであるべき。そんな気がする。

だから、深そうな解釈なんか考えず、ただ自前のレンズ (眼球) に映すだけでいい。
本当のところは作者にしかわからない。
だから、受け手にしかわからない何かを感じればいい。
その時にネガはポジになり、ポジはネガになる。
ああ、ライカ製品を持っていないのに知ったふうなことを書いてしまった。ごめんなさい。
(と、「ライカ持ってなきゃ黙ってろだなんてフザケンナ」という気持ちになられる方がいらっしゃった場合の自分サゲをしておくズルイ私)

落合氏の著作物は何冊も読んだ。お子さんとの時間について書かれた部分を読んだ時に「ほっこり」したのを覚えている。わからない言葉を調べながら読むのが楽しいので、今後もチェックしていきたい。

最後の作品は、カメラをかまえる御子息だろうか。外国語のタイトルにドイツ語が使われていて、ちょっと嬉しい。『連鎖する質量への憧憬』という題名の『憧憬』が「承継」にかかっているようにも感じるから、たぶんそうなのだろう。落合氏はすでに遺影を撮っているのだろう。

昔の人はよく言ったもので、写真を撮られると魂は抜かれるのだ。
どのように?
それはあの QR コードを読み込めばわかるさ。
そして「死後」という「デジタルの世界」で「あの頃は肉体があったなぁ。懐かしい」なんてふうに永遠に生きていく。

でも、善行の質と量の合計よりも悪行のそれのほうが大きい人生なら、出身地・国籍・人種・宗教・性別・年齢は関係なく、永遠に出られないブラックホールという拷問マシーン兼ゴミ箱へポイされちゃうよん。天網恢恢疎にして漏らさず、お天道さまのレンズは何もかもお見通し。

展示室の配色もネガポジが意識されている?

『プラ庵Ⅱ』という作品の映像がきれいだった。
宇宙空間に浮かんだ巨大建造物のようですらある。
この茶室でいただけるのは「電磁多留寧茶」に違いない。
飲料水メーカーとコラボして今後のイベントで提供してほしいかもw

英語の hello はスラングで henlo と表記される。
デジタルのデジ (digi) が、デンジ (電磁) になってもいいじゃないか。
な~に、味 (意味) に変わりはありません。
どんな味?
それは『黒楽』の QR コードを読み込めば (ry 

銀座は、松屋で催されたミッフィー展などで何度か訪れているが、どこか安心できる。
六本木や原宿とも違う、角の取れた雰囲気。
もちろん私の勝手な印象でしかない。

「晴れときどきライカ ── 逆逆たかり行動とダダイズム」:
https://store.leica-camera.jp/event/gallery_kyoto_yoichi-ochiai

会期:2023年9月1 日(金)- 10月29日(日)
会場:ライカギャラリー東京 (ライカ銀座店2F)

そういえば私は10代の頃、軽音楽部と写真部の部員を兼ねていた。現像液やらのお酢の匂いを我慢しながら暗室で作業していた記憶がある。B4のサイズよりも大きい木枠に貼ったパネルが家のどこかに残っている (はず)。それが物理空間に展示される未来は訪れないだろうから、大掃除のついでに見つけたりしたら、いつか note に載せようかな。誰も見ないだろうけど。それと、「写真を撮られると魂が抜かれる話」をいつか書きたいな。誰にも読まれないだろうけど。撮りたいから撮った (指に撮らされた)、書きたいから書いた (指に書かされた)、その衝動に素直に従える幸せを死ぬまで味わっていたい。

おわり🍀