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共感覚 _

私には たくさんやりたいことがあるけど、結局なにも実行していない。

進みたいという思いには ただの焦りも混在していて、それがなんだかしっくりこない。というのは 部分的には言い訳にもなる。だけど、なんか待てよ待てよ。と言う自分を無視できないで 長いこと経っていたなぁと気づいた。

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苦みも甘みも極端だと嫌だな。と感じるとおもう。_ しなやかに両極に揺れる自分のイメージを 外してまで やりたいことに挑戦する気持ちはない。

右手はしなやかに神経が通うようなだけど、左手はぎこちなく神経が通っていない感覚が在る。_ 左右のアンバランスの中で なにをやったって 私は自己満足できない。自由が欲求の根底に在るので 究極的に、自己満足するなら したいと思っている。体と 音が 心から好きだから 踊る。

ひとつのリズムを 自分の中に通し続けることができても 、他のリズムを同時に自分の中に通し続けることができないのであれば 私のやりたいことはできないに等しいのだと 気づいた。

目で見る世界がそのまま描けるより、目をつむって額のあたりで見える世界を描けることの方が できるようになりたいと思う。唯一無二を自分の中から 引き出していけるなら とっくに絵も 描いていると思っている。_ 才能がないのではなく、自分を見つけてあげれていないから。そこにうじうじした時は 何事も実行しないことに 私はなっているんだと思った。

それらは、生きるためでも、お金のためでもなく 純粋に本当の自分を満たすために在る。純粋な欲求が目的であることは私にとって欠かすことはできない。

それらを 分かりやすい言葉で例えると、" 共感覚 " を養うことだと思っている。

共感覚とは 私の言葉で説明すると、音を聴いて形が見えたり、音楽を聴いて風景が見えたりすること。それは、同時に2つや3つの感覚を感じること。五感を通して感じ始めることが多いと思うけど、五感を2つってわけではなく、心( 感性 ) や感情や記憶や知識までと幅広く融合していく。

五感を通して的確に脳を開発していくことを、結構意識して生きている。それは、しなやかに凛として生きるという 私の人生の目標、もしくは基礎につながっていく。五感開発は素晴らしいことだな、再認識した朝の時間だった。

幼い頃の感覚を思い出し戻ることを目的に生きるように意識している。共感覚を養うためにある時間はとても心の充実に繋がる。もっと原始的に物事を捉えて 実行してみようと 再確認した。いい朝だった。

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_ 特別なことだと自慢したいわけではなく、ただ自分に在るこの世界観に気づいた。確実に何かしらの縁が繋がっている ばななさんの物語をきっかけに 気づく瞬間が在り、とても心が満たされた。

絵を描く( 物作りをする ) 同い年くらいの、素敵な男の子が出てくる。

その人の言葉が もう一人の自分の言葉なのかなぁと錯覚するくらい、原理の視点が似ているんだと思う。こうやって、ばななさんの言葉に いつも洗われる。

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ある人から見れば 屁理屈にうつる私の資質。人間の輪に存在しているから仕方ない、そーゆう他人からの視点に惑わされ過ぎると 純粋な欲求が歪み始める。時代は変わっていくので、自身を否定されて傷ついた体験はそろそろ 本当に手放していい時期に来た。そんな感覚が 近々在る。

もう嫌なんだって、と体がゆっている。

たくさん ため込み過ぎた。また、ナマケモノの部分が悪循環を起こして排出できず滞りが生じた。大きく2つに分別された要素が複雑に絡み、今 痛い痛いと苦しんでいる。その神秘を 美しいと思う瞬間もたしかに存在している。痛みって尊いな。

精神が純粋でない限り、体は痛いんだと。そうゆう視点でも この慢性腰痛を捉えている。だから この停止期間は必然だと思っている。どうこの時間を乗りこなすか、できるだけ腑におちて行動したいと思い、常に迷っている。同時に 常にちゃんと本来の自分に戻っている面を 信じることにした。見た目や1日の動きは廃人のようだけど、心には ものすごいエネルギーを注ぎ 前進している。2つを同時に観る。

精神が純粋になる _ それは その都度コントロールするものではないから。

停止しているときと 前進しているときは、同時に在り1つ ナイスなバランスなんだと思う。その対になっているものを 純粋な視点で捉える。そこに エネルギーをそそぐ。

時間は かかると思う。この日常の一瞬を大切に迎え入れる。弱った体を 内側の健気な魂が支えている、そんな感覚を日々 痛みからもらっている。



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