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どうしてこんなに翻訳が好きなんだろう~「村上春樹、河合隼雄に会いにいくを読みました~


 
こんにちは、ちゃんももです。
先日、「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」という本を読みました。
 

 
私は霊能者として仕事をしているのですが、お二人の仕事を拝見するたびにいつも超ド級の霊能者だなあ、と勝手に感じていました(残念ながら、既に河合さんはお亡くなりになってしまいましたが)。

お二人とも、ものすごい人だというのは周知の事実ですが『生身の人間のまま、これだけ深く集合意識にアクセスして、自分の自我をしっかり持ったまま、両岸を行き来しながら、これだけつじつまの合った立体的なものを積み上げていく』みたいな出来るのは、本当にすごいことだよなあ、と感じています。

しかも、それぞれの岸から拾ったものを反対の岸に持ち込んだりしながら、二つの世界が補完し合いながら、それぞれをアップデートしている、それの強烈な媒介作業をしているような感じ。非常に緻密で、人間離れしたことをなさっているという印象なんですよね。
 
さて、この本は1998年に書かれたもの。

スマホもAIもない時代だけど、確実に共通認識のように存在する「閉塞感」「社会不安」みたいなものに関するお話も多くされており、今の時代に問題になっているようなものの芽やルーツみたいなものもそこかしこに書かれておりました。

また、「抽象的で、簡単に言語化ができるようなものではない」んだけれど、対話することでそれがぼんやり浮かびあがるというか、「踏み込んで具体的ではないのに、当時の芯を食った話がたくさん出てくる」という、非常に興味深い本でした。
 
さて。

それはそれとして、今回記事として取り上げたいのが、村上春樹さんがこの中で「自分と翻訳」ということに関して記述されていた部分です。
 
私は霊能者なので、いわゆる「目の前の人の潜在意識下の思念」や「その場にいない人の意識」だったり「自分が知らないけれど、その人に必要とされるであろうこと」を仕事場面でお伝えすることが非常に多いのですが、スピリチュアル用語では「チャネリング」と呼ばれるその作業は、「外国語の翻訳」に似ているなと常日頃から思っていました(とはいえ、私は翻訳ができるほど英語に明るくはないので、本当に翻訳とチャネリングが本当に似ているのかというのは、比較はできないのが残念なところなのですが)。

村上さんの、「翻訳」についての文章が、霊能者である自分が「チャネリング」する時と共通する部分があると感じたので、今回は、これに関して思ったことを色々書いてみたいなと思います。


 ときどき、 どうしてこんなに僕は翻訳という仕事が好きなんだろうと考え込んでしまうことがあります。それは自分でもよくわからない。

でもただひとつ言えるのは、外国語のテキストを読んで、それを理解し、うまくこなれた日本語に移し替えるという作業の中に、何か僕をつよく惹きつけるものが潜んでいるのだろうということです。
 
(中略)

翻訳をやっていると、ときどき自分が透明人間みたいになって、文章という回路を通って、他人(つまり それを書いた人)の心の中や、頭の中に入っていくみたいな気持ちになることがあります。まるでだれもいない家の中にそっと入っていくみたいに。

あるいは僕は文章というものを通じて、他者とそういう関わりを持つことにすごく興味があるのかもしれないですね。
 


ここは読んでいて、ストレートになるほどなあ、と非常に共感した部分です。私がチャネリングに関して自分ごととして感じるのは
 
・「日本語でない情報を受け取って、日本語に移し替えるという作業」そのものが快い。
 
・その快さは、「自分でない、いいエネルギーが体を流れていくような心地よさ」と、あとは、「自分の回路に、あえて自分でないものを流して、それを自分の語彙や感覚で自分なりに組み替えていくパズルのような痛快さ」みたいなところにある気がする。
 
・パズルを組み替えるときも、理屈であれこれというよりは感覚的にやっていて、なんとなく「あ、これとこれが繋がって、ここではこの言葉がフィットするのでは、この比喩に置き換えるとリズムもよいのでは」みたいな点と点が、うまく直感的に繋がって、立体的かつよどみのないストーリーに組みあがったものが浮かび上がった時に、「これこれ!」と思えてとてもうれしくなる。
 
みたいな感じでしょうか。
 
村上さんは、「他者とそういう関わりを持つことにすごく興味があるのかも」と書かれていますが、これも非常に鋭い視点だなあと感じています。
 
というのも、「相手のエネルギーを受け取って、自分の言葉で翻訳する」というのは非常に肉体的な作業(自分の血肉になった言葉や感覚でしか用いることはできない)だし、かなり密なエネルギー交換になるわけです。
 
これは「相手のエネルギーを受け取って、しかも、自分の深い部分に持って行って、そこで処理する」ということでもあるので、そもそも論として、「相手を生理的に受け付けられない」「相手に心が開けない」「相手に対して共鳴できる部分がない」という場合は、原則的には翻訳作業はできないのです。
 
つまり逆に言えば、翻訳作業とは「この人とぜひエネルギーを交えたい」というものと触れ合う作業(コミュニケーション)でもあるということになるのです。

まあ、そもそも翻訳は『相手の発するものを、もっと広い対象に伝わるようにする』ということでもあります。「すでにある素晴らしいものを、必要とする人に、さらに広く届くようする」ということでもあるし、その人を知らない人に「ねえねえ、これ凄いから読んでよ!」と教えるということでもある。これもまた深いレベルのコミュニケーションと言えるのかもしれません。
 
また、興味深いことに、こういう記載もありました。
 

もちろんだれに対してもどのようなテキストに対してもそれができるというわけではありません。自分にとって特別なものに関わったときにしかできない。
 
おそらく良い翻訳をするにはそういう深い部分でのエンパシーとかが必要とされるのではないかと僕は思います。逆に言えば、そういうものが感じられないテキストはうまく翻訳できないと思います。


この部分も、チャネリングに非常に似ているなあと思いました。
 
というのも、霊能者が受け取れるのは、自分の引き出しや持っている感覚の中で、相手と共振した部分だけなのです。例えば相手が持っていても、自分がそれと共鳴するものを持っていないと、こちらがキャッチできないのですよね。
 
なので、私は翻訳の楽しさには「相手を介して、自分の持っている『カケラ』を拾い上げて、自覚できる」という部分にもあると思っています。
 
人は自分だけでは自分の持っているもの屋考えを理解しきることができないけれど、相手と共鳴して何かが震えた時に「ああ、自分はこんな考えがあるのか」「自分はこれが好きで、これが嫌いなのか」「これが自分にとって大事なのか」みたいな風に自己理解が深まるし、新しい気づきや発見、あるいは芽吹きがある。
 
それは優しい癒しでもあるし、コミュニケーションでもあるし、流動的な「自分」という意識を拾い上げていく作業のひとつでもあるのですね。
 
さて。

ここまでのことをまとめてみると、私にとってのチャネリングとは…

『やっていて単に気持ちが良』くて、『パズルのように面白』いもので、『直接その人と合ったり、その人と同じ時間を過ごさなくても、深いレベルで繋がることができるコミュニケーション作業』であり、同時に、『相手の発するものを、もっと広い対象に伝わるように、自分がパイプとなる作業』でもあり、さらに『自分というものを理解するためのかけらを集める作業』でもあるわけです…

が。

その羅列を読んで、「なるほどなあ、だから好きなのか」と思う一方で、なんだかこれが100%の答えではないような気もすごくするんですよね(笑)

まあ6割くらいは掴んでいるとは思うけれど、今一つ、好きの全部を説明できている感覚がない。
 
でも思えば、「何がどう魅力的なのか」を言語化しきれないというのも、翻訳らしいと言えば翻訳らしい気もします。

というのも、「言葉から漏れてしまう行間のムードをいかにして伝えるか」というのが翻訳作業のキモであるような気がするから。

そして、「結局は再現しきれないのはわかりきっているのに、それでもやらずにいられない」「でもその作業の中にしか生まれない、何かがあるからそれを見てみたい」みたいな奥深さや自己矛盾がある。
 
村上さんもまた「どうしてこんなに僕は翻訳という仕事が好きなんだろう」とおっしゃられていますが、これもまたわかる気がします。

「これはこういうもので、だからこうだ」と単純に言うことができない、それこそがまた、魅力なのかもしれませんね。
 
・・・と、そんなことを思ったのでした。
 

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