マックス・ウェーバーを知る

資本主義とは理念など無関係にお金儲けだけに特化した考え方。
お金儲けとは無縁に見えるキリスト教、しかし1905年頃プロテスタントはお金儲けをする宗派だった。
16世紀キリスト教はローマ教皇をトップとするローマカトリックの体制だった。当時の聖書はラテン語(現在の日本で言えば古文みたいなもんで、普通の人はまぁ読めない)で書かれたものしか認めらておらず、神父さんしか聖書を読めなかった。それを読める神父さんが民衆に教えていくスタイルだった。故に教会の権力は絶対的なものになる。またカトリックは当時お金払えば天国にいける贖宥状を貰えるなどして、教会が金儲けに奔走し腐敗していて、それに対抗したのがルター(新宗派プロテスタントの開祖)だった。先ずは聖書をドイツ語に翻訳し誰でも読める状態にして(これを万人司祭主義という/誰もが神父・司祭でたりえるというマインドを萌芽させた)、神父さんの教えを盲目的に信じる信者を開放した、これにより贖宥状も葬り去られ、この一連の流れをウェーバーは魔術からの解放と呼んだ。
しかしここで1番の問題が発生した。クリスチャンにとって一番大事などうやれば天国に行けるのかということが民衆は分からなくなった。
プロテスタントにはほぼ修道院が無いといっていい宗派(例外もある)。修道院とは俗世とは穢れた場所であるから、隔離した場所で禁欲生活を送って心を清浄に保つ場所=逆に言えば祈ってばかりで何かを生産する場所ではない。なぜ修道院が無かったのかというと働くことが義務だったから。ルターの考え方は働くことは神から与えられた召命(しょうめい/人間それぞれに神から与えらた役割)つまりは天職(ベルーフ)で有りそれから逃れるのは修道院のように不信人と説いた。
つまり天国行きたきゃ働けというのがプロテスタントの教え。
しかしある時、プロテスタントにカルバンというやつがおって、宗派プロテスタントの中でカルバン派を組織しており、そいつがキリスト教の予定説(お前がどんなに頑張ろうが全知全能の神の予定説は地獄に行くと予定されている奴は地獄に行くという救いの無い話)を引っ張り出す。
すると当然どんなに頑張っても報われなきゃ働かないで好き勝手に生きた方がいいんじゃねーという考えが起きる。
それを制したのが同じくカルバン派の中の誰かが、天職を一生懸命全うする事は神の意志に沿う事なので働きまくるのはとても良い事、そして稼げば稼ぐほど天国に近づける。つまりお金儲けはとても良い事だという所まで昇華する。そしてウェーバーのいう『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』に結実する。


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