2020年7月8日の日記「皆で知ろう。ユーモア教室」

  僕がゾウなら絶対に自分の鼻を踏んで顔からコケてる。

 こんばんは、日記の世界へようこそ。

 さっきまで(23時)ずっと仕事のネタ出しをしていた。12時から始めたから休憩を除いて10時間ほど。ようやくいいアイデアが浮かんだので今日はここまで。
 ネタ出し、アイデアが出るときは10分くらいで溢れるように湧いてきて一瞬で終わるけど、全く光明が見えないときは真っ暗な洞窟をゴールがあるかも定かではないのに永遠に掘り続ける作業に近くてかなりキツイ。と、いってもそのキツさも混みで楽しんでやっているから別に苦ではないが。
 ただ学生のときと違って、思いつかないからもういいやと諦めるわけにはいかないから、一応納得がいかなくても落としどころを見つけないといけない。背後に聳える落とし所の気配に怯えながら、このままだとこいつを選ばないといけない重圧に耐えつつ、新たな可能性を探っていく。楽しいね。

 このツイート、びびっときた。日々漫然と感じている内容だ。ちょうど良い機会だからこの違和感について言語化していこう。

 これから論じることは上記の恐山さんのツイートを切っ掛けに個人的に主張したいことを思いついたというだけで、氏のつぶやきの意図とは異なる内容について書くことになるかも知れません。引用しといて大変失礼ですが、その点ご容赦ください。

 「今日はやけに寒いなと思ったら松岡修造が海外に行ってた」
 「時間停止モノAVの9割はやらせ」
 「きのこたけのこ戦争」
 「ポプテピピックやおちんちんランド開園閉園などの画像リプライ」

 「アフリカでは~」同様、誇張抜きで100回以上は確実にインターネットで見聞きしているこれらの定型ユーモア。手垢塗れですっかり鮮度が無くなっているのに、未だに愛され日々活用されている。なぜだろう。

 ユーモアの本質とは意外性であり、そうくるとは思わなかった!という意識の外側から現れたものに対して、人は元来興味を惹かれる。ここではこのタイプのユーモアを、人を楽しませることに特化した「エンターテインメント型ユーモア(エンタメ型ユーモア)」と名付けよう。
 これはユーモアに限らず、様々なことに当てはまる理屈だ。既に知っていることや何度も見たことがあるものが次第に飽きられるのはごくごく自然で、愉快な一発ギャグでもしつこくやっていると、当然として興味を持たれなくなる(誰も面白いと感じていないのに何度もやるから、逆に面白くなってきた。みたいなパターンは今回は置いておく)。

 にも拘わらず、「アフリカ~」のような紋切型ユーモアは未だにインターネットで広く、そして長く親しまれている。これはインターネットの人たちのユーモア感覚が稚拙であったり、人として未成熟だから飽きずに何度も同じものを楽しめる。というわけではない。
 インターネットの構造上、その手のユーモアの方が有効だというだけだ。センスではなく環境の問題なのだ。

 年齢、性別、性格、育成環境、国籍、その他etc. あらゆる種類の人間が一堂に会する巨大な世界・インターネットの中で、共通の感覚を持っている人と出会うのは非常に困難だ。「刺繍好きが集う掲示板」などのような限定的なコミュニティへ行けば比較的見つけやすいだろうが、ことTwitterのようなあらゆる人が無作為に詰め込まれた箱庭では、中々厳しい。
 と、なってくると初対面の人と打ち解けやすいタイプの話題は共通の趣味や体験などへ収束する。同じものが好き。同じエピソードや考えを持っている、というだけで人の仲は一気に縮まる。
 つまり、定型ユーモアを発することは、これと同様のことを行っているに過ぎない。人と交流していると会話の端々には冗談{ジョーク}が登場することが多い。しかし、自分と同じ趣味やエピソードを持っているからといって、ユーモアのセンスも似通っているとは限らない。自分の冗談は通じないかもしれない。
 そんなときに役立つのが今回の内容の根幹、皆が知っている親しまれたユーモア。「今日熱いですね~。松岡修造が近くにいるのかな?」となる。
 多くの人間に面白いという太鼓判を押され、流行っているもの。比較的通じ易い上に相手も面白いと感じている確率も高い。
 これが交流の場で活発になる有効なユーモア「コミュニケーション型ユーモア(コミュ型ユーモア)」だ。コミュ型ユーモアは、人と円滑な関係を築くことに秀でた、言わばユーモアのパスポートなのだ。

 意外性を求められるエンタメ型ユーモア。共感性を求められるコミュ型ユーモア。同じユーモアなのに、この2つは正反対の性質を持っていると言っても過言ではない。水と油。
 なので、エンタメ型ユーモアを信奉している人が、コミュ型ユーモアを用いている人々を見るとさぞ滑稽に感じるだろう。意外性0の誰もが知り尽くしているユーモアをひたすら繰り返しているだけなのだから。当然、ちっとも面白いと感じないし、場合によっては嫌悪感を抱くことすらあるだろう。
 当然だ。エンタメ型ユーモアが驚きを求めている一方、コミュ型ユーモアは安心を求めているのだから。冗談を言っている。という共通項があるにも関わらず、根本的に冗談を言う意図や目的が異なっているわけだから。
 これはどちらが上だとか、どちらが正しいかとか、そういう問題ではない。片方が片方を糾弾する行為に意味はない。目的が違う。ただそれだけだ。
 それぞれが自分の環境に適したユーモアを活用すれば良い。本当にそれだけの話。

 これが、知れ渡ったネタが現役でウケ続けていることに対する違和感の正体だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?