2020年3月23日の日記「物語よ、誠実たれ・後編」

 昨日の日記を投稿した後、どうぶつの森を買いに自転車を飛ばして近所のゲームショップに行った。んで、別のゲームを買って帰ってしまった。何をしているんだ。

 それでは昨日の続きでーす。


 つまり、本質的にゲームと言う遊びの仕組み自体が、マルチエンディングが採用される以前から、既に相性が抜群だったと分かる。

 一方、漫画では読者の意思を作品に介在させることはできない。
 漫画家は作品を提示して、読者がそれを受け取る。その間には、真っ直ぐな道しか用意されておらず、左右に避けることもできない。正真正銘の真っ向勝負なのだ。

 漫画でマルチエンドを用いるということは、この道を何分割にも分けることと同義だ。初めからマルチエンド前提で連載を開始し、それをコンセプトとしていたならば話は変わってくるが、打ち切りの可能性が常に控えている週間連載漫画では、まずありえない。
 第一、仮にマルチエンドというコンセプトが初めから根底にあったのならば、事前に読者に伝えておかなければ、コンセプトとして成立していない。
 1人のヒロインの話が完結した後に「実はこの漫画のコンセプトには全てのヒロインのエンディングを見せるという狙いがあったのですよ」と言われても、それはコンセプトとして破綻しているのだ。
 つまり、やはりこのマルチエンド形式は後発的に設定したことが窺える。

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 僕勉と言えば、サブヒロインの桐須 真冬が評判なことで有名だ。人気投票を見ても分かる通り、メインヒロインに5倍の大差をつけていることから、その人気っぷりは盤石なものだと窺える。作品内でも桐須 真冬のルートを最後に持ってくるらしい。つまり、熱心なファンによる何百ものハガキ爆撃で上位に輝いたのではなく、純粋に彼女が圧倒的なファン数を誇っているのだろう。

 ここからは根拠のない邪推になってしまい大変に失礼だが、この結果は作者や集英社にとって予想外のことであったのではないだろうか。本当はメインキャラの子と結ばれる結末にする予定だったが、サブヒロインにここまでの人気が出てしまったら、読者の反感を集めてしまう。そう考え、苦肉の策としてのマルチエンドという形をとったのではないだろうか。
 どうも僕にはこのマルチエンドに、作り手が読者のご機嫌を伺っているような印象を受けた。
 
 確かに漫画が商業である以上、ある程度ユーザーのニーズに答えることは必然だ。マーケティングは重要だし、時には読者が求めることを汲み、寄せる必要もある。作者の脳内で完結しているものをそのまま作り、常に人気を維持することは至難の技だろう。
 
 しかし、だからといって全ての読者を納得させるために中途半端な手段をとるのは、誠実さに欠ける行動だと思う。それはエンタメを作る人間が最もやってはいけない行為ではないだろうか。
 大多数の読者を満足させるという意味では正解だし、皆が傷つかない安牌な選択だとは理解できるが、僕は何よりキャラクターに対して失礼だと感じる。可笑しな宗教を信奉している意見のように聞こえるかもしれないが、キャラだって生きているし魂は存在しているのだ。

 僕が以前に書いた「リアリティ論」も根本はこの考えが前提にある。作者は1人の人間を生みだした責任として、しっかり生きている人間を描くべきだ。漫画でのマルチエンドは、彼らの魂を何分割にも散り散りにすることと等しい。愛がないよ、それは。いや、愛はあるだろうが、その愛は間違っている。少なくとも僕はそう思う。 

 結論を言うと、僕は漫画のマルチエンドは場合によってはアリだと思う。型に嵌った形式をずっと続けていくのもつまらないし、何よりも文化としての発展性が生まれない。しかし、今回のように後出しジャンケン気味に、マルチエンドを加えるのは、絶対に違う。
 もし僕が「僕たちは勉強ができない」の熱烈なファンだったら、今頃烈火の如くキレ散らかしていたかもしれない。

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