2020年3月22日の日記「物語よ、誠実たれ・前編」

 うっ……、どうぶつの森やりたくなってきた……。
 いやでも、しかし。うーん。どうせ直ぐ飽きるし……。でも……。やりたい。どうしよっか?どうしたらいいですか?

 シミュレーションゲームがあまり得意ではない。特にあの手の具体的な目標が提示されていないやつが。自由を楽しむゲームだと理解できているが、僕は自由を与えられると不安になってしまう。縛っておくれ。きつくきつく。
 

 日記停止中、確か10日ほど前だったかな?少し古い話だが、言及したいトピックスを見て、早く書きたくてうずうずしていた。今日はそのことについて書こう。話がズレるが、たった10日前の話題で古いと感じるの、ある種の現代病だなぁ。まぁ、いいけど。情報速度が速いのは良い事だと思うので。
 
 ジャンプで連載中のラブコメ「僕たちは勉強ができない」が、マルチエンド形式をとることを発表した。僕はこの作品を読んだことがないので詳細や雰囲気を把握しきっていないが、SF設定のない普通のラブコメで、どうやら分岐要素は突然現れたらしい。つまり作品内設定で物語の分岐が始まったのではなく、作品外の要因でマルチエンドが採用されたというわけだ。
 マルチエンドを採用する漫画は前例がないわけではなく、そういう作品も幾つか知っているが、今回はジャンプの、そして読者のキャラ愛が強くなる傾向が高いラブコメというジャンルでこの発表があったことで、関心が集まっている印象を受ける。
 重要なのが、飽くまでifストーリーではなく本編として全ヒロインの正史ルートをやることだ。トゥルーエンドもないらしい。これは全ての物語が答えであり正解であることを意味している。
 漫画や小説、アニメなどで、番外編やスピンオフとして別エンディングをやることは稀に見るが、それとは次元が違う。
 
 この決定に対し、ファンの心情は複雑だろう。単純に自分の好きなキャラが勝ちヒロインになることが確約することは嬉しいが、同時にヒロイン数だけ負ける姿も見ないといけない。
 また、複数ヒロインがいるラブコメで非常に重要になる「迷い選ぶ」主人公の苦悩や葛藤が、軽いものになってしまう。
 そして、これが個人的に1番重要な問題だと思うが、物語とキャラクターに対して誠実か否か。という疑問もでてくる。これは難しい。 
 
 兼ねてより複数エンディングはゲームの専売特許だった。しかし、ゲームのマルチエンドが否定されることは、基本ない。文化が馴染み定着したから誰も疑問を感じないという側面もあるだろうが、そうではない。
 なぜゲームでは当たり前のようにマルチエンドが受け入れられ、小説や映画、アニメ、漫画など、他の物語媒体でマルチエンドを採用すると、物議を醸すのか。
 それはゲームが他と違い、能動的なエンタメだからだろう。

 ゲームの最大の利点とは、日常で中々できない体験や非科学的な空想の世界までもを、実際に遊ぶことで疑似体験として、手軽に自身の体験へ落とし込むことができることだ。
 勿論ゲーム以外でも、それらを題材にした映画や漫画などで、その世界を垣間見ることはできるが、それはあくまでも見る体験。所謂、受動的なものである。
 見ること(受動)と、やること(能動)では、同じ体験でもそこから得られる経験や学びの相対値は大きく異なる。

 そして、この受動と能動の決定的な違いが、マルチエンドの是非に関わってくる。
 「自ら行動し、選択する」ことが可能なゲームでは、ある程度の遊びの幅が必要となる。1つの行動しかできず、帰ってくるフィードバックも1つではわざわざゲームにする意味がないからだ。

 遊び(=行動)の幅を増やす。となると、エンディング分岐が生まれることは必然で、プレイヤーの行動の幅だけ、作り手は様々な答えを提示する必要性がある。
 この"幅"とは、別にマルチエンディングに限った話ではない。様々な武器を選択できるとか、キャラクターの容姿を自由にカスタマイズできるだとか、そういった幅は全て、プレイヤーに「実際に体験させる=能動的遊び」を強調するためにあるのだ。
 つまり、本質的にゲームと言う遊びの仕組み自体が、マルチエンディングが採用される以前から、既に相性が抜群だったと分かる。

 少し長くゲームの話をしてしまった。今回は漫画の話がメインなのに。
 どうしよ。まだ本題に入っていないのに1800文字超えちゃった。
 
 ……続きは明日書きます。遂に日記なのに前後編に別れるようになってしまった。散々言っていることだが、これ日記か?
 
 
 どうぶつの森、買いに行こっかな。
 
 
 

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