人生は物語そのものを突然に突きつけられる話
記事にでもしないと未練ダラダラでずっと同じことSNSで言いそうだから、なんでこうも必死になってるのかまとめてるそんな記事。
早い話親が荼毘に伏して遠くに行ってしまって、そして訳あって美徳の中のそういう物語の主人公として自覚せざるを得なくなったというそんな話です。
お前酔い過ぎだバカとか思われるのは承知で、でも本当にそういう人になる、本当にそんなもんなんだと実感させられたのでそのまま書きます。そのまま。
他人の人生に興味ない人はバック!
それでもなんで僕が今こうなってんのかが気になる人は頑張って書くので時間ある時にでも見てくれればと思います。
自分はバカであることを自覚もしていて、それも社会に適応できなかった人種の方だ。
だからお金があればあると良いのはあんまり考えたくなくて、親からも細く長く生きろと言われたのもあって貯金らしい貯金はしてなかった。自分がやるべきだと思ったことはやって、それで貯金が無くなる。結果が伴ってなくても自分はそれでいいと思ってた。
母さんがLINEを使うようになってからたまにメッセージが飛んでくることもある。
普段はスマホとか分からないことがあったら相談でこっちにメッセージが飛んでくる。
一時期こういうメッセージも来た。
「お父さんね、〇〇(もるの本名)がダンスの専門学校行くとき、お母さんは心配だから反対したんだけど、お父さんは〇〇の好きにやらせた方が良いって言ってたんだよ」
事が起こる半年前。ああじゃあ、もっと話さなきゃだ、実家帰っても横になりっぱなしで、お酒飲みすぎて透析もするくらいでどうしようもないなと思ってたから。
やっぱお酒ないと本音も話せんのね、とも思ってたから。
前提として、父さんは酒豪で、笑う事と言えばお酒が入った時で、無駄に厳しくて、脅迫めいた威圧飛ばしてきて、毒親かと思った。家出しようとも考えた。
でも体罰は全くなく、自分がやりたいと思ったことに自由にやらせてくれた。物心がついた頃には自由にやらせてくれてるのに無意識にも疑問に思ったが、当時は自覚らしい自覚は無かった。
それで、その事が起こる直前の頃、メッセージが来た。
「お父さん、ダメそう。〇〇、そろそろ覚悟しといた方が良いよ。」
母さん、もっと早く言えなかったかい
父さん、その、馬鹿
今、今の今
全部わかったわ
育て方がマジで不器用なだけだったんだ
漫画みたいに、ドラマみたいに、小説みたいに
マジのマジの不器用
本当の愛情は隠れて裏から支えてた
今それで分かった
酔ったわけじゃない。なんなら自分も皆も元からそうだと思う。
自分は、物語の主人公そのものになってしまったと自覚した。
自分は直ぐに会社に長期の休みの連絡を入れて直ぐに実家に帰った。
父さんは病院。〇〇は居るのか?とかも言ってたらしく、胸が苦しかった。治癒能力が無くてどんどん悪化して危篤状態という話だった。
退院するつもりだったらしく、医師側はちゃんと懇切丁寧に説明した上で、父さんはこの病院に殺されるんだとか思いこんでて、混乱していた。
死に関わることは言わないであげてみたいなことを母さんから言われたけど、それでも伝える内容は行く前から決めてた。
自分は嘘つくのが日本一下手で、一生本当の事しか言えない人間だ。
だから本当の事しか伝えない。言ってやろう。
自分なら普通に生かされていたのなら絶対に言わない言葉だ。あまりにも出来過ぎて、下手な小説ならもしかしたらありえたセリフかもしれない。
面会。父さんは個室。面会前は別室で一度待機。
涙がすでに止まらなかった。
面会が出来るようになって個室に案内される。
お父さんは家にいる状態と比べるとほんの少し元気はないものの、普段通りな印象があった。
前情報が無ければかなり元気な方かもしれない。〇〇も皆来たよって、母さんから話し始める。
「父さん…!」
役になりたくて出た言葉じゃない。
素だ。喉からひりだしたような声だ。
これが主人公なのか。
可能ならあんまり自覚したくなかった。
でも、言わなきゃ一生後悔する。
伝えた。
「父さん、育て方カッコよすぎんだよ。自分はもう大丈夫。育ててくれてありがとう。」
情けない声でも。伝えた。頭下げた。
その直後、元気も枯れてもおかしくない状態でも、父さんは笑顔を見せてくれた。
多分そこで完全に死を自覚したのかもしれない。でも、自分はウソなんて絶対につくことは出来なかった。
「俺は、今が過去になる。死ぬってことだ。」
お父さんはここで確実に自覚した。
でも、気を荒立てるようなことは無かった。
色々話した。もっと話せばよかったかな。でも、話し続けるとそれさえも疲れるとかであまり伝えられなかったかも。
それでも、伝えるべきことは一言一句しっかり伝えた。
翌日から千葉から東京まで電車を使って毎日見舞いに行った。
翌日もそこまで変わりは無かったけど、その次の日から急に弱っていくのが目に見えて分かった。
そして体がギリギリ動く状態の日。これが意思疎通できる最後のチャンスと思った。
自分は最後のお願いをした。
「父さん、手、握ってくれよ」
自分は両手で右手に手をかけた。
渾身だっただろう。力は弱弱しくても、しっかり握り返してくれた。
「ありがとう。」
それが父さんとの最後の意思疎通だった。
毎日見舞いに行った数日後、その深夜。
父さんは体から離れた。
フローチャートがあるように、大変ながらも事が進んだ。
荼毘に伏した後から父さんを良く思うようになった。夢にも良く出てきた。
戒名は自分が考えて決めた。献杯で注いだお父さんの酒は自分が飲み干すようになった。飯も全部食った。フードファイトを嗜んでるのがちょっと生きた。
全部事が進んで、すべてが終わった時まで、毎日涙を流し続けてた。
気が付いたのは落ち着いたころだった。
落ち着いて今後どうするかを家族会議する時、お金出すから一周忌は来て欲しいという話があって、母さんと約束した。
そして細く長く生きればまあいいやと思ってた自分は、一周忌来てほしい話も含めて、親になにも出来なかった事を悔いて、これからは親に貢献できるようにもっともっと頑張らないといけないと実感した。
結婚できない男だと自覚していても、それができるくらいの力は無いと、本当にダメだと思った。
裕福では絶対に無い家庭だったので、葬式とか時間内故の外食とか、自分や子含めてお金が無い状態の中、母さんが湯水のごとくお金を使ってる姿を間近で見て、心が痛んでしまった。兄と姉がいる。詳細は省くけど金は稼げてないと思う。
自分も、本当に、何もできなかった。
本当にこのままではダメだ。
家族会議では一年後、生きるだけじゃなくてちゃんと結果残すようにすると伝えた。
実家から離れて、こうして父さんとの別れが全て終わった。
父さんは谷村新司さんの曲をよく聞いていたらしく、調べてみたら『昴』という曲にあたった。
たまたま。本当にたまたまで解釈の都合もいいとこ過ぎるかもだけど、他人だとは思えないような感情になった。
父さんの遺言?は、都合が良すぎるか。良すぎるかもしれないけど、その都合にすがりたい自分も居た。
もし、もしも、そうだとしたのなら、自分はアンサーとして、
自分はイヤホンを付けて
自分の向かう道を帰路と共に足でなぞりはじめた。
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