身体の言い分聞いてる人、つよい

2019.9.18

他人の家の玄関前に、オウムの頭が置いてあるのかと思ってぎょっとした。
実際のところ、それはよくわからない種のまん丸な実で、全然鳥の頭部ではなかった。
でもぱっと見近くの木々にそれらしい実は成っていないし、この家の住人が転べばいいとか、驚けばいいとか、誰かがそういう気持ちをもってして設置したのでは……?
悪意の塊を目にしたようで、朝から心臓に悪い。


最近は映画館で観たい作品がたくさんあるので、久しぶりにひとりで映画館へ行った。
きみの鳥はうたえる以来、柄本祐のへんな感じが気になってしまってるので、つい。
R18+なだけあって性行為×10という感じだったけど、嘘も過不足もない性描写がよかった。
まじで大人のふたりが、5日間だけ、自分たちのしたいことを、大学生のように食べてセックスをして寝ることだけをする映画。
これ好きそうだなって人が、少なからずふたりは思い浮かんだ。


災害云々によって誰かと誰かが結ばれる、みたいなのがどうしてもずるく感じてしまって苦手だ。
それらが起こらなければ君たちはくっつかなかったんじゃないの? 壮大な吊り橋効果に騙されているだけで、本当はもっと手に入れたい人が他にいるんじゃないの? 楽してんじゃないの?それでいいの??


でも実際そういうことって起こり得ることだし、自分もそういう渦中に放り込まれたら、生存本能とか緊張感とかごった混ぜになって、この人と生きたい! とか思いそうなので、
くそ~という気持ちでスクリーンを見つめるしかなかった。
でもそういう世界が終わる、みたいなときにこの人といても違和感ねーなって相手が、自分のそういう枠の人なんだろうな。
知り合いに見せて、みんなが誰を思い浮かべるのか知りたい。


身体の言い分を聞いてる人、愚かで正直で不器用で好ましいな。生き物としては正しいと思うから、傍目から見れば不健全なんだろうけど、めちゃ健全だと感じちゃうよ。
どちらが正しいとかではないけれど、
世間の倫理観とか暗黙の了解みたいなものを、自分の意志でちゃんと守ろうと決めた人ではなく、なんとなく漠然と乗っかっているだけの人って、いざというとき弱い。


結局のところ、自分の本能が一番信用できると思いませんか。わたしはここ数年の、他人に対しての自分の嗅覚を信頼してる。精度悪いときもあるけど、基本合ってる。
上映後、誰も口を開かず退室していたのが面白かった。


蔦屋書店で小学生ぶりに国語辞典を購入。重い。
言葉の質量を取り間違えることなく過不足なく伝える人、というのはめちゃくちゃ稀有で、そういう人がわたしは好きで、わたしもそうなりたいと思うので、言葉の定義のベースとして、国語辞典を買った。


時代が変わるとともに、言葉の定義も変わってくる。
「愛」を引いたときに、異性に対する恋愛感情、みたいなのが出てくる辞書は論外。2016年発刊のはそうでした。
今年発刊されたものを買えたので、少なからず今年いっぱいは時代遅れなことを言わなくて済む。


あれだけ念願だった書店員も、裁量のなさに飽きがきたので、クラブの面接を受けにいった。踊るほうのやつね。
クラブって男女の浅ましい欲望がどちゃどちゃ沸き立っていて、セクハラのまかり通るライブハウスに近い。誰もろくに音楽聴いちゃいないと思うけど、他人を見てる分には面白い。
今日は絶対お持ち帰りしてやるとヤル気が満ち溢れている男と、なんやかんや声をかけられたがっている女と。
音楽と酒という建前があるからこそ獣になることができる場所。クラブってほんと優れてる。


思ったより強面なおじさんズと、思ったよりかっこよくない男の子たち、あとは金髪の女の子がいた。
男の子たちは、絶対モテ目当てだろ、という感じの微妙な子しかいなかった。パリピがわんさかいる職場じゃないの? クラブによるの?
根っからのパリピと異文化交流がしたいから受けにきたのに。悲しい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?