創りごと:私
「僕」の残す言葉に、私は妙な期待を抱く。
“好きと言って、それ以上を手に入れて、それから言い訳をすればいい。君には、それができるだろう。”
“僕らは、同じ掌のうえで踊っている。”
「僕」は言い切らないし、何を何に例えているのかも分からないような言い回しをする。
私は、そこから自分の理解の範疇で、意味をつむぎ、「僕」の人物像をあぶり出そうとする。
私は、喋りすぎる。言葉にしすぎる。
「過ぎたるは及ばざるが如し」と「いくらやっても、やり過ぎることはない」。ここでは前者が採用される。
私は、いい人と評されることはあっても、魅力的とはほど遠い。
人は魅力だと感じる部分を言語化できないから、魅力という言葉で封じ込めるのである。
深いことを示すようで、とても表面的にも感じられる。魅力的。素敵。好き。特別。
これらの言葉は良い意味で便利。そういうことだよね、“便利”。
便利なのは良い。不便なのも良い。
いつまでも不便ではいられないし、いつもは便利でいいんだけど、不便のおかげで夢にまで見た幸せが手に入るときがある。
私は、さよならの方が得意。便利だから。
ぐるぐるし始めると、最近は自分が「僕」か「私」か「あなた」か分からなくなる。
“今、泣いているのは誰?”