細胞です長いです

「人間は死ぬべき」と言っている人がいて、それもそうだよな、と思う。全ての問題が、全ての悲しみが終わる気がする。
そして、「お前が死ね」と言われている気分になる。

「人間は死ぬべき」という主張と、SNS等でのブロックはよく似ていると思う。何もなかったかのように終わらせることができる最善の方法な気がする。

今、人間が生きていると色んな悲しみ、色んな憎しみ、色んな問題があって、論理的に考えれば考えるほど、果てしなくて、もう終わりにしようと、結局は感情論に落ち着くのかなあ。

「生きてても仕方ない」「死ぬべき」
論理に論理を積み重ねて、最終的には感情論だから、人間は豊かな感情をもつのだなあと思う。

SNSでのブロックも、人間は死ぬべきだという主張も、議論の余地をなくして、平穏を保つことができる。

そういう点で、どちらも正しい選択だと思うけど、寂しさもある。

この寂しさは、どこから来るのだろう。

何を言っても届かない。
何を言っても、相手は死ぬことが解決策と思っているなら、死ねば解決。ブロック。

死にたいから死ぬべき、ブロックしたいからブロックする、に何も言えないんだけど。

その人の中で自分は死んでいるんだなあと思う。
人の自由だからやめてとは言えないけど。


人間は死ぬべきと言っている人で、「死ぬこと以外、間違っている中で妥協点を探しているだけだ」と言っている人がいた。死ぬことだけが正しいと。

その人にとって、人間は間違うことで「正しくない人間」になるんだと思った。

私は、人間に正しいも、正しくないもないような気がしている。(こういう、いい人ぶるところがあるから、友達が少ないんだと思う。)

私は「お前が早く死ね」と言われている気分になる。人間は死ぬべきだと主張する人には、そんなつもりないのかな。どっちでもいいけれど。

分からないのが、人間は死ぬべきだと主張して、私を「早く死ね」と言われている気分にする人は、差別やタバコ、労働環境の問題等に対して色々と意見をもっていて、それを断じて許さない。人間は死ぬべきっていう感情論で全て片付くのになあと思う。

そういう許せない気持ちが、結局、死ぬべきっていう感情論を生み出すのかなあ。

差別する人、タバコ吸う人、間違った労働環境、いずれに対しても許せないってことを表明することは、もちろん自由だし、そういう声をあげられるのはいいことだと思う。ただ本当に許せないのなら、許さないと思って行動するだけでは足りないと思う。許さないことは、その解決ではないと思うから。

許せないのなら、どうして差別するのか、どうしてタバコを吸うのか、どうして間違った労働環境が蔓延しているのかを考え、その人たちに何をどう伝えれば、なくす、やめるきっかけになれるのかなどを考えるのが賢いと思う。差別する人、タバコを吸う人に、「間違えた人間だ、許さない、今すぐやめろ」と直接的に伝えることは、死にたい人に、「死にたいと思うな、生きたいと思え、生きろ」と言うことぐらい意味がないと思う。

私には「早く死ね」「お前が生きている意味はない」と聞こえる発言、つまり「人間は死ぬべき」という主張をする人は、自分は、そう思わざるを得ない状況に追い込まれたのだから、聞く人がどう思おうと、知ったことではないと思っていると思う。

「人間は死ぬべき」と表明して、まわりがどう思っても知らない。
タバコを吸って、まわりがどうなっても知らない。
差別をして、まわりがどう思っても知らない。

上のどの「知らない」にも、
「自分が追い込まれた先だから仕方ない」
という言葉が続く気がして、結局はどれも同じじゃないかと思うし、別に正しくない人間がまじっているとも思えない。
(友達が少ないパート2。)

人間は、ちゃんといつかは死ぬし、いつかはちゃんと滅びるのだから、「死ぬべき」なんて感情論に振り回されない方がいいんじゃないかと思う。

そう思えるのは、私が能天気だからか。

感情に流されて手当たり次第、気に障る相手をブロックし続けるよりも、相手の感情まで流れ着いて漂ってしまう方が楽に思えるなあ。ラクってなんだろ。

感情に流されて、全てを終わらすことのできる「人間は死ぬべき」よりも、単細胞生物たちが触手や繊毛をひらひらさせ漂ってるように、問題の中で生きている方が自然な気がする。シゼンってなんだろ。

ボルボックスになって鞭毛をフワフワさせていようかな。

そんなふうに生きるなら、死んだ方がましだと聞こえる。耳が痛い。やっぱり私は死んだ方がいいのかな。
ゾウリムシなら耳がないか。

誰の味方にもなれず、傍観者として、両側から恨みを買って漂うのかな。
(友達少ないパート3)

アメーバもいいな。